【大原 勝林院】歴史的な仏教の「大原問答」の会場。

◎京都大原の寺院群の元祖。
◎天台声明(しょうみょう)発祥の寺。
◎浄土宗法然 vs 他宗教の「大原問答」が行われた。

創建:平安時代

勝林院は大原の中心的寺院

京都大原は古くから朝廷とゆかりがあり、比叡山延暦寺の影響をうけてひらけた場所。
平安時代中期、藤原道長が権力をもち、源氏・平氏が台頭するなど、飢饉や戦で国は荒れていた。
その折、延暦寺の僧は俗化し仏法守護を名目に武装し戦闘に従事するようにさえなっていた。

それに疑問を抱いた僧たちは、大原に移り修行に打ち込み、多くの寺院が建つようになった。
勝林院は1013年、最初に建立された中心的寺院。およそ90年後に建立された中心的寺院である来迎院と合わせ、下院勝林院、上院来迎院として集落化した。

京都大原と声明(しょうみょう)

勝林院には比叡山の声明の道場が移された。
声明はお経に音曲をつけて歌うもの。
平安時代に中国から伝わった。
大原は天台声明の中心地で、勝林院は発祥の寺。

勝林院で「大原問答」

大原問答とは

平安時代末期、勝林院で日本の仏教史で重要な「大原問答」が行われた。
大原問答は、新しい浄土教をとく法然と、古くからの宗教の僧との教義対決。

法然の浄土教とは、「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰もが平等に極楽浄土へ行けるという教え。
平安時代末期、貴族から武士へと権力が変わっていく変革の時代。
争いと飢饉でよくならない世の中で、法然の教えはこれまでの宗教で救われなかった人々に大きな影響を与えた。

一方、古くからの宗教の僧は、多くの人々が法然になびいていくことに危機感をもった。
天台宗、真言宗、法相宗、華厳宗の僧らは仏教の論争で法然を打ち破ろうと法然を招いた。
その会場となったのが勝林院だ。

結果。
法然の勝利。論争は一昼夜かかり、法然は1人で日本中の仏教学者380人余りを論破した。

勝林院「証拠の阿弥陀」

勝林院の本尊は阿弥陀如来坐像。
法然が論破した際、阿弥陀如来が光を発し証拠を示したという逸話から「証拠の阿弥陀」とよばれる。
印を結んだ手から五色の綱が下がっている。白布の綱は葬儀の時来迎橋の外まで伸ばして安置されているお棺の上にたらして、如来の導きによって極楽往生をするという儀式を行うためのもの。


重要文化財

石造宝篋印塔
梵鐘

宗派

天台宗

日本のおもな宗派

密教系天台宗
真言宗
浄土宗系浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

大原観光保勝会ホームページ

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