【醍醐寺】3 豊臣秀吉、醍醐の花見。醍醐寺と秀吉の関係は?

◎醍醐寺は平安時代から「桜会」が有名だった
◎醍醐寺三宝院の座主・義演は、秀吉が関白になるのを助けた
◎ねね、茶々、侍女らを女人禁制の上醍醐に招いた
◎花見会場の設営などなど景気対策でもあった

ゆかりの人物:豊臣秀吉義演(三宝院座主)


醍醐寺は、豊臣秀吉が盛大な花見を行った会場で、醍醐の花見として有名だ。
もともと花見好きだったといわれる秀吉だが、なぜ花見なのか、醍醐寺でなのだろうか。

豊臣秀吉はなぜ花見を行ったのか

秀吉が大規模な花見を行った理由としておおまかに次のようなことが考えられる。
1.自分の存在を知らしめる。
花見が行われたのは1598年3月。朝鮮出兵の劣勢がみえてきたころで、豊臣秀吉自身が亡くなる5カ月前のことだ。
この時期に自らが桜の会を盛大に主催することで、天下の覇者が自分であることを宣言しようとした。

「桜会」はそもそもは読経の後に参加者が花見をする会で、平安時代から始まり鎌倉時代には上皇や法皇も参加し、室町時代には観阿弥、世阿弥が猿楽を披露したという公家の世界の催しだ。

2.長年付き添ったねねへのねぎらい。

3.公共事業として
このころ京の町は仕事にあぶれた人々が多くみらた。秀吉は大規模な設営準備を行うことで景気対策を企図した。

なぜ醍醐寺だったのか

醍醐寺の中心的寺院である三宝院の座主・義演と秀吉は特別な関係にあった。
義演に秀吉は恩義があった。

醍醐寺三宝院座主・義演への恩返し

秀吉は武家から公家、天皇の次に偉い関白へと身分を上げた。
これに公家・二条家が力を貸した。

義演は二条家出身であることから、秀吉は恩返しに大サービスをしたのだ。
花見会場の準備として、建築物の修理、庭園の改造、山道の整備、三宝院の寝殿の建築などすべて費用は秀吉負担で行った。

農民出身の秀吉が公家の職位・関白になれたわけは?

太閤秀吉の”太閤”とは?

豊臣秀吉は太閤秀吉とよばれる。
太閤とは関白だった者が子に職を譲ったあとの呼称だ。
秀吉は全国統一に向かう1585年に関白になった。
関白は天皇の次に偉い公家の職位。
農民出身の秀吉がなぜ関白になれたのか。

農民出身の秀吉が関白になれたからくり

関白になるにためは、由緒正しき”御家柄”が必要だった。
御家柄とは、藤原氏北家嫡流の五摂家〔近衛(このえ) ・九条・二条・一条・ 鷹司(たかつかさ)の五家〕出身であることだ。

秀吉は”御家柄”を近衛前久の養子に入るという方法によって獲得したのだ。

そして秀吉は当時、現関白の次の座をめぐって2人が争っていたところに割り込んでいく。
争っていたのは
・二条昭実(義演の兄)
・近衛信輔(近衛前久の息子)

二条昭実はこの争いに勝って関白になったが、5カ月後に秀吉に座を譲り、秀吉が晴れて関白の座につくことができた。

近衛前久は秀吉はワンポイントで息子に継がせる心づもりがあったが、それは秀吉が亡くなった後になる。

義演は二条家出身で二条昭実の実の弟であった。
二条家は武家とのつながりが非常に強い公家で、室町時代は足利義満を完全サポートし、戦国時代は信長との信頼関係もあった。

秀吉は二条家のおかげで関白になれたことで、二条家に絶大な恩義があったのだ。
秀吉は関白になった翌日、義演を准三后という高い身分に格上げした。
准三后は、太皇太后(天皇の祖母)、皇太后(天皇の母)、皇后(妻)と同程度の高い位。

なぜ関白だったのか

ほんとうは秀吉は天下をとり、武門の最高位である征夷大将軍になりたかった。
征夷大将軍になるには朝廷からの指名が必要だった。
朝廷に指名されるには、征夷大将軍からの推薦が必要だが、前・征夷大将軍の足利義昭はこれを拒んだ。

秀吉の醍醐の花見はどんな会だったのか

醍醐の花見は、日本史上最も豪華で盛大な花見だったといわれている。
道路整備、堂塔の新築、修理、茶屋の建設など公共事業的な莫大な費用は秀吉が全て出した。
秀吉は、日本各地の鉱山から産出した金銀の利権を独占していたのだ。

いったいどれほどのものだったのか。

会場:下醍醐―上醍醐途中の槍山に設けられた花見御殿

醍醐寺は笠取山にあり、山の上部分の上醍醐と山の麓部分の下醍醐からなっている。
槍山は下醍醐から上醍醐に昇っていく途中にあり、千畳敷といわれる広い敷地が整備された。

地図は醍醐寺三宝院パンフレットより

槍山は現存するが、かなり狭く当時のおもかげをしのぶことはできない。

花見御殿が三宝院に移築されている

700種の桜

この日のために道が幅広く拓かれ、そこに秀吉が集めた700種類の桜が植えられた。

醍醐の花見の参加者

豊臣秀吉、正室・ねね、淀殿ほか側室とその侍女、秀吉側近の武将、その妻女ら。
女性だけで1300人。

豊太閤花見行列より

上醍醐は普段は女人禁制の場所だったが、1日だけ制限を解除した。

女性の衣装は1300人分、お召し替えも合わせて3900組が仕立てられた。
この費用は島津氏が命ぜられた。
島津氏は秀吉が方広寺に大仏を建立した際などに非協力的だったことがあり、その懲罰的な意味があったといわれている。

催し物

和歌 秀吉、秀吉の息子・秀頼、ねね、淀殿ほか側室たち全員が和歌を短冊に書き、桜の枝に結んだ。
その数131葉。短冊は三宝院に保存されていて、国の重要文化財に指定されている。

画像は醍醐寺 文化財アーカイブスウェブサイトより

茶屋 会場の槍山までの道に八つの茶屋が設けられた。
この道も、現在は茶屋が建てられる広さはない。

豊太閤花見行列


毎年4月の第2日曜日、醍醐の花見を再現するイベント「豊太閤花見行列」が開催される。
扮装が時代劇のような豪華さでとても楽しい。

義演僧正

山伏


狂言

東映株式会社による寸劇 刺客から太閤を守る武士と淀殿

美しい北政所さま

【国宝】唐門から三宝院におもどりの豊太閤


通常は閉まっている

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