◎醍醐天皇の名前となった
◎「鎌倉幕府vs後醍醐天皇」で後醍醐天皇をバックアップした
◎北朝の足利尊氏も支援した
ゆかりの人物:醍醐天皇(勅願寺に指定)、後醍醐天皇(支援をうける)、足利尊氏(正統性を保証される)
創建:平安時代
醍醐寺と醍醐天皇
醍醐寺は、平安時代に聖法が創建した寺。
創建以来、多くの貴族がこの寺で僧となり、醍醐寺は天皇家とのつながりを強め強大になっていった。
“醍醐”天皇の名の由来
醍醐寺と特に密接な関係をもったのが醍醐天皇だ。
醍醐天皇から寺名がつけられたのではなく、逆だ。
〇〇天皇の〇〇にあたる名(諡号 しごう)は死後に贈られるもので、醍醐天皇の生前名は敦仁であった。
(敦仁)天皇は生前、醍醐寺に篤い信仰をもち巨額の費用をつぎこみ、勅願寺(天皇が願いごとを行う私寺)に指定した。
この深い関係から、死後「醍醐」が用いられ、醍醐天皇と称されるようになった。
(敦仁)天皇は醍醐寺を勅願寺にするほどなにを祈ったのか
醍醐天皇は菅原道真を左遷した天皇
菅原道真が大宰府に左遷された話は有名だが、道真を左遷した人が醍醐天皇。
醍醐天皇は、藤原家の讒言にまどわされて道真に罪を着せてしまったのだ。
道長は死後、怨霊となって関係者にたたった。
左遷に関係した藤原氏らが立て続けに病死したのだ。
醍醐天皇はこれを道真の怨霊によるものととらえ、ひたすら怨霊を振り払おうと醍醐寺を頼り費用をつぎこんだ。
930年には、高官が干ばつ対策を協議していた清涼殿に落雷が起こり、数人が感電死し、醍醐天皇は3カ月後に亡くなった。
『北野天神縁起絵巻』醍醐天皇が執務していた御所・清涼殿に道真の怨霊が雷神となって雷を落としている場面
菅原道真はなぜ左遷されたか
平安時代、藤原家が隆盛を誇り政治の権力を握っていた。
一方、菅原道真は藤原の系列ではないが、優秀であったため出世を重ね藤原勢よりも上位の右大臣になった。
これをねたんだ藤原勢が醍醐天皇にうその告げ口をし、道真はいわれのない罪をきせられ地方に飛ばされることになった。
醍醐寺と後醍醐天皇
武家から権力を取り戻した後醍醐天皇
後醍醐天皇(第96代)は、醍醐天皇(第60代)の400年以上後の天皇。
武家が開いた鎌倉幕府を滅ぼし「建武の新政」で武家から天皇へ権力をとりもどした天皇。
この時、後醍醐天皇を強力にバックアップしたのが醍醐寺なのだ。
醍醐寺は公家勢力とつながりながら強大化した寺であり、当然武家ではなく公家側につく。
醍醐寺は当時、比叡山延暦寺をもしのぐ大きな力をもつようになっていて、強力な支援者となった。
後醍醐天皇、吉野に追われる
権力をとりもどした後醍醐天皇であったが、その後の政治が公家優先で進められたため、鎌倉幕府滅亡に尽力した武士に不満をもたれることなった。
後醍醐天皇は足利尊氏に反旗を翻され、劣勢となり吉野に追われ、南朝として政治を始めたが3年後に亡くなった。
次代の足利尊氏も醍醐寺に力を求めることになる。
醍醐寺と足利尊氏
比叡山延暦寺をもしのぐ大きな力をもつ醍醐寺に足利尊氏も接近する。
とはいえ、醍醐寺も八方美人というわけではない。
醍醐寺とひとくくりでいうが、醍醐寺にはいくつかの「院」が存在していた。
現存するもので「三宝院」「報恩院」がある。
この2つの院が歴史上それぞれの役割をもったのだ。
後醍醐天皇をバックアップした「報恩院」
報恩院の座主は文観房弘真(ぶんかんぼうこうしん)。
天皇家に密着しており、後醍醐天皇に仏教者としての免許状を与えた。
文観は膨大な所領をもち、武装兵力も保持していた。
後醍醐天皇の有力な戦力だった楠木正成はこの武装勢力だったという見方もある。
足利尊氏をブランドにした「三宝院」
足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し朝敵となった。
朝敵となると戦う大義名分がない。
そこで、尊氏は鎌倉幕府が後醍醐天皇の対抗としてたてた北朝系の光厳上皇に挙兵の命令をだしてもらうように図り、朝敵の汚名を払いのけた。
これにより、尊氏にブランド力がつきぞくぞくと味方を増やし、後醍醐天皇を吉野に追い込んでいった。
この光厳上皇の命令をとりついだのが、醍醐寺・三宝院の座主賢俊だ。
三宝院は報恩院よりも歴史が古く、賢俊は報恩院をよく思っていなかった。
加えて賢俊は公家出身で光厳上皇と強いつながりがあったのだ。
以降、賢俊は真言宗全体のトップの座に昇進し、尊氏から多くの所領の寄進をうけた。
ここで三宝院の優位の座が確定し、現在に至っている。
三宝院にある後醍醐天皇の書と足利尊氏の書
後醍醐天皇は、報恩院の文観に自筆の書「天長印信」を与えた。
後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)【国宝】
弘法大師空海が高弟の真雅に授けたと伝わる印信(いんじん、奥義伝授の証明書)を後醍醐天皇が書写したもの。
筆写:後醍醐天皇、装丁:文観房弘真
一方足利尊氏は、三宝院の賢俊が亡くなった四十九日に冥福を祈って「理趣経」を書した。
理趣経は真言宗の基本経典。
理趣経 足利尊氏筆【重要文化財】
画像は醍醐寺 文化アーカイブスウェブサイトより
南北朝キーパーソン2人の筆が醍醐寺に現存しているのだ。
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