◎石川丈山作
◎三十六歌仙の肖像画が掲げられている
◎僧都(ししおどし)を庭においた初。
◎中国風庭園
ゆかりの人物:石川丈山
創建:江戸時代
石川丈山とは誰?
武士から詩人へ
石川丈山は個人で詩仙堂(しせんどう)を建築した詩人。
石川丈山は歴史的人物として一般にはなじみがないが、当時は人気を集めていた人物だった。
狩野探幽筆
もとは徳川家康に仕えた武士で大坂夏の陣で「一番乗り」するぐらいの勇者だった。
しかし、戦略として集団での戦いの時代になっていたため、逆に家康の逆鱗に触れ、クビとなってしまった。
その後はあっさり朱子学の勉強に入る。
先生は、藤原惺窩(ふじわらせいか)。先輩に林羅山がいる(林羅山は徳川家康のブレーン)。
石川丈山は詩の才能を発揮し、朝鮮の詩学の権威に「日東の李杜(日本の李白、杜甫)」と称賛されるほどに、名を上げた。
なぜ一介の詩人が立派な建物をつくることができたのか。
優秀な学者は諸大名からの誘いが多くあり、丈山は「母を養うため」として広島の浅野家に仕え、14年後に京都へ戻った。
その4年後、詩仙堂の建築が始められた。浅野家からの報酬は高額で、それが元手となったともいわれている。
詩仙堂のみどころ
「詩仙堂」
上部壁に三十六歌仙の絵が掲げられている四畳半の部屋。
建物全体をさして詩仙堂とよぶようになったのは、後年のことで、創建当時は丈山によって「凹凸窠(おうとつか)」と名づけられていた。
凸凹の土地に建てられたため。
三十六歌仙とは
三十六歌仙は、丈山が好みに合った中国の有名な詩人、李白、杜甫など漢晋唐宋時代の詩人を36人選定したもの。
選定にあたっては、性格・経歴・詩風などを詳細に吟味し、似た2人をペアにして、18組が精選された。
知己のあった林羅山との意見交換も行った。
1人1額縁に肖像画と詩人の詩が描かれている。
肖像画は狩野探幽が描き、詩は丈山が得意の書体・隷書体で書いた。
丈山の隷書体
詩仙堂の天井
アンペラという中国南方の植物の茎で編まれたむしろが素材として使用されている。
僧都(ししおどし)
「詩仙堂」部屋からみた庭の向こうに僧都(ししおどし)がある。
ししおどしは、鳥獣を追い払うためのしかけだが、丈山はこの竹の音を環境の一つとして庭に設置した。
庭園にとりいれた初めてのケースといわれている。
中国風庭園
丈山は中国を好み、庭で中国の山水の風景を表した。
刈り込まれたサツキは山
白砂は海に見立てられている。
庭めぐり
庭に出て散歩ができる。
ちょっとした散策コースだ。
滝、塔、小川などが待っていてくれる。
滝は洗蒙瀑、蒙昧(知識が低く道理に暗い)を洗い流すという意味。
嘯月楼(しょうげつろう)
2階部分。現在は上がれない。
雨の嘯月楼。
宗派
曹洞宗[禅宗]
日本のおもな宗派
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