【清凉寺】釈迦如来像のなかの五臓六腑は誰が?何のために?

◎本尊の釈迦如来像の体内に内臓の模型が入っていた。
◎光源氏のモデルとされる源融の墓がある。

ゆかりの人物:源融(みなもとのとおる)、奝然(ちょうねん 創建)
創建:平安時代

清凉寺釈迦如来像のなかに五臓六腑が


清凉寺はなんといっても釈迦如来像が有名。

この釈迦如来の背中の蓋をとったら中から絹で作られた人間の内臓の模型が発見されたからだ。

模型が発見されたのは釈迦如来像の国宝指定のために調査が行われた1953(昭和28)年。
釈迦如来が清凉寺に伝わったのは平安時代の985年なので900年以上後に発見されたことになる。

1953年の調査のさいには、内臓模型のほか、文書、版画、鏡、数珠、中国の銅銭などがみつかった。

清凉寺釈迦如来像の中になぜ文書や内臓模型が入れられていたのか

清凉寺の釈迦如来像は中国でつくられた像の複製で、日本の僧=奝然(ちょうねん)が中国から日本に運んだもの。

その中国でつくられた像がユニークだ。
釈迦の生身の仏としてつくられたのだそう。

釈迦如来像は釈迦本人お墨付きの生き姿

元の釈迦如来像が作られたのは、お釈迦様が健在のときにさかのぼる。

釈迦が母の摩耶夫人に説法をするために夫人がいる天にのぼったとき、弟子たちは嘆き悲しんだ。
弟子たちが寂しさをまぎらわそうと作ったのが釈迦如来像。
この像は生身の像として37歳の釈迦そっくりに作られた。
釈迦は90日後に地上に戻り、この像を見てとても喜び「自分が亡き後はこの像が人々を救うだろう」と言ったという。

インドで作られたこの像は後に中国に渡った。

日本からの僧=奝然、釈迦如来像複製を持ち帰る

奝然は東大寺の僧。
奝然は東大寺ではなく、新しい仏教の本山を作りたい、それを嵯峨野近くの愛宕山に建てたいと考え、中国(宋)の仏教聖地巡礼を行った。
その際、釈迦如来像に出会い、復刻して日本に持ち帰ることを決めた。

復刻の過程で5人の中国の尼僧によって、体内に絹製の五臓六腑が入れられた。
また、生身ということで、目には黒水晶、耳には水晶、霊魂の象徴として鏡が入れられている。

清凉寺の元は源融ゆかりの寺「棲霞寺」

清凉寺の前身は、源融(みなもとのとおる)の山荘だった「棲霞観(せいかかん)」が融の死後に寺とされた「棲霞寺(せいかじ)」。
現在は阿弥陀堂となっている。

阿弥陀堂

源融の墓


融の墓もある。

源融は紫式部『源氏物語』の光源氏のモデルとされる人物で、嵯峨天皇の息子。
嵯峨天皇は清凉寺の近くにある大覚寺を造った天皇。

棲霞寺から清凉寺へ

棲霞寺は896年から寺として存在していた。
この寺に985年、奝然の弟子が釈迦如来像を安置した。
奝然は嵯峨野近くの愛宕山に中国の仏教聖地=五台山とそこにある清凉寺を再現しようという志をもっていて、弟子がそれを受け継いだ。
このとき、五台山清凉寺となった。

本堂

清凉寺の庭

池泉式庭園

参拝料を支払って本堂から大方丈へ向かう渡り廊下沿いにある。

池に建つ弁天堂

川中島に建つ忠霊塔

小堀遠州作といわれる枯山水庭園

大方丈前の庭。

豊臣秀頼の首塚


1980(昭和55)年に大阪城の三の丸跡地から出土した豊臣秀頼の首が収められている。
首に介錯の跡があるという。
秀頼は徳川政権下で多くの寺社再建の役割を負い、清凉寺にも貢献したことから。


国宝

本尊 釈迦如来像
像内納入品
棲霞寺の弥陀三尊

重要文化財

釈迦堂縁起

京都府指定文化財

仁王門
本堂(釈迦堂)

宗派

浄土宗

日本のおもな宗派

密教系天台宗
真言宗
浄土宗系浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

清凉寺ホームページ

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