◎嵯峨野が大好きな嵯峨天皇の離宮がもと。
◎寺というより宮殿の趣。
◎嵯峨天皇と空海は仲良しで、空海もよく訪れた。
◎大覚寺統と持明院統の大覚寺。
ゆかりの人物:嵯峨天皇(創建)、後宇多天皇(再建)
創建:平安時代
大覚寺は、嵯峨天皇の離宮=嵯峨院がもと
大覚寺(だいかくじ)は、平安時代の天皇=嵯峨天皇と深い関係がある。
嵯峨天皇は平安京をつくった桓武天皇の息子。
また、紫式部『源氏物語』のモデルとされる源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇の息子。
嵯峨天皇のもとの名は神野親王で、嵯峨野がお気に入りで20年住んでいたので、没後、嵯峨天皇とよばれるようになった。
住んでいたのが嵯峨院という京都中央とは別に構えた離宮。
大覚寺はこの嵯峨院がもとになっていて、現在の正式名称は旧嵯峨御所大本山大覚寺。
嵯峨天皇の没後、長女が父と夫を偲んで嵯峨院を仏道の道場にと申し出て876年、朝廷に認められた。
その時から大覚寺となった。
もとが離宮であるため、大覚寺全体の雰囲気は、寺院というよりも宮殿建築の装いが特徴。
嵯峨天皇は歴史的な二つの出来事に関係している。
・薬子の変(くすこのへん)で兄との権力争いに勝利したこと。
・東寺を空海に任せたこと。
嵯峨天皇と薬子の変
薬子の変は、52代嵯峨天皇と兄で51代平城天皇との権力争い。
平城天皇は一度嵯峨天皇に皇位を譲った。
しかし不倫関係にあった女官と組んで再び権力を取り戻そうと行動し、嵯峨天皇と対決、嵯峨天皇が勝利した。
嵯峨天皇、空海に東寺を任せる
嵯峨天皇は空海に東寺を任せたことで知られている。
空海は東寺を密教の道場とした人物として有名だが、そうさせたのが嵯峨天皇ということ。
嵯峨天皇が空海になぜそこまでしたのかはわかっていないが、薬子の乱の時、空海が嵯峨天皇に味方し、国の混乱を鎮める祈りをささげたことで信頼関係が高まったともいわれる。
もとより、嵯峨天皇は書が得意で、書に秀でた空海と面会し意気投合し親しくなっていたということもある。
空海は嵯峨院を訪れ、2人でお茶をするなど交流があった。
三筆
嵯峨天皇、空海に加え、書家の橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人は、平安時代の三筆とされている。
三筆は日本書道史上最も優れた3人をいう。
「大覚寺統」「持明院統」の大覚寺
鎌倉時代、天皇の系列が「大覚寺統」「持明院統」の二つに分かれた。
大覚寺統は大覚寺を本拠地として執政した亀山天皇系列。
持明院統は持明院を本拠地として執政した後深草・伏見天皇系系列。
この二つの流れは後の南朝・北朝の対立の源流となる。
天皇家はなぜ「大覚寺統」「持明院統」に分かれたのか
「大覚寺統」「持明院統」は兄弟が皇位継承を争い分裂したもの。
「大覚寺統」は弟系列、「持明院統」は兄系列だ。
その父は、88代後嵯峨天皇。
大覚寺を創建した52代嵯峨天皇から400年以上後の天皇。
後嵯峨天皇は後継者をうまく決められないまま亡くなり、兄弟間で皇位が争われた。鎌倉幕府はこの争いに介入し、朝廷の弱体化をねらって兄系・弟系交互に天皇を出すという方法をまとめた。
弟が亀山天皇で大覚寺統の元となり、兄が後深草天皇で持明院統の元となる。
大覚寺統系に後に南朝を建てた後醍醐天皇がいる。
大覚寺は、後嵯峨、亀山、後宇多の3天皇を住職として迎えた。
大覚寺の建築物
大覚寺は南北朝時代の1336年、兵火をうけ炎上・焼失した。
現在の宸殿は江戸時代、正寝殿は桃山時代に再建されたもの。
宸殿(しんでん)【重要文化財】
江戸時代に、徳川秀忠の娘で後水尾天皇の皇后となった東福門院和子が皇居で女御御殿として使用してたものが移築されたもの。
狩野山楽による襖絵がある。
狩野山楽筆、牡丹図
勅封心経殿
嵯峨天皇直筆の『般若心経』が収められている。
嵯峨天皇は、818年に全国に疫病が流行した際、空海に勧められて『般若心経』を書き写し、空海が祈願したところ疫病が収まったというもの。
嵯峨天皇のほか、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の『般若心経』も収められている。
勅使門 おなごりの門
勅使門は、天皇陛下が使う門。
大覚寺の勅使門はおなごりの門とも称される。
これは、幕末に住職だった有栖川宮慈性(ありすがわのみやじしょう)門主にまつわる逸話からのもの。
幕末は、幕府vs討幕派(尊王攘夷派)が激しく争っていた。
幕府は有栖川宮門主に討幕派の疑いをかけ、江戸の徳川家の菩提寺=寛永寺の住職も兼務するようにと朝廷から命令を出させた。
大覚寺は真言密教の寺で寛永寺は天台宗、という強引な人事であったが従わざるをえず、大覚寺に未練を残した有栖川宮門主は赴任のさい、勅使門から出て何度も何度も振り返ったということから「おなごりの門」とよばれるようになった。
正寝殿(しょうしんでん)【重要文化財】通常非公開
後宇多法皇が院政をとった御冠の間
南北朝統一のさい、99代後亀山天皇から100代後小松天皇への神器の授与が行われた剣璽の間(けんじのま)
などの部屋がある。
大沢池【国指定名勝】
嵯峨天皇が嵯峨院を建造した際、中国の大きな湖=洞庭湖(どうていこ)をイメージして造った日本最古の庭の池。
天神島、菊ヶ島、庭湖石
池に浮かぶ、天神島、菊ヶ島、庭湖石の二島一石の景色を「景色いけ」という。
いけばな嵯峨御流発祥
嵯峨天皇が、菊ヶ島に咲く菊を手折り、花瓶に挿したことがいけばな嵯峨御流の始まりで、大覚寺はいけばな発祥の地とされている。
名古曽(なこそ)の滝跡
嵯峨院にあった滝が枯れた石組の一部。
平安時代の公家で歌人の藤原公任(ふじわらのきんとう)がこの枯れ滝を詠んだことからその名でよばれるようになった。
滝の音は
絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れて
なほ聞こえけれ(「滝の流れる水音は、聞こえなくなってからもうずいぶんになるけれども、その名声だけは流れ伝わって、今でも人々に知れ渡っていることよ。」
公任の時代にはすでに滝は枯れていたが、その時でもなお知られている滝を賛美する歌。)
重要文化財
宸殿
宗派
真言宗
日本のおもな宗派
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真言宗 | |
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