【寺田屋】寺田屋事件と寺田屋坂本龍馬襲撃事件。幕末大事件の現場

◎寺田屋事件が起こった。
◎坂本龍馬が襲撃された(寺田屋坂本龍馬襲撃事件)。

ゆかりの人物:薩摩藩士。坂本龍馬

伏見の旅籠・寺田屋は幕末、二つの大きな事件の舞台となった。

1.寺田屋事件
1862年5月21日
2.寺田屋坂本龍馬襲撃事件
1866年3月9日

寺田屋事件。薩摩藩主島津久光が薩摩藩の尊王攘夷派を粛正。

幕末の1862年は尊王攘夷運動が急激に勢いを増してきていた頃。
尊王攘夷の考え方にたいし、もう一つあったのは公武合体の考え方。
寺田屋事件は、公武合体派で薩摩藩主の島津久光が薩摩藩の尊王攘夷派を粛正した事件。

尊王攘夷の考え方:外国の圧力で開国をしたことは屈辱であり、しかも貿易は日本の経済を悪化させ社会不安をもたらした。
開国するべきではなかった。
孝明天皇は外国人嫌いであり、天皇を補佐して外国勢を締め出すべき。

公武合体の考え方:幕府は開国し、朝廷はこれに反対しているが、このままでは国にとってよくない。幕府と朝廷は協力体制をとるべきである。

なぜ薩摩藩主・島津久光は薩摩の尊王攘夷派を粛正したのか。

それは、薩摩藩といっても一枚岩ではなかったことがある。

薩摩藩主・島津久光は世の中に尊王攘夷の機運が高まっているなか、明確な態度を避けながら、実は公武合体派であった。

薩摩藩には尊王攘夷派が多く存在していて、久光の本心を知らない志士たちは、天皇を擁して幕府を排除し、久光を長とした薩摩の世に改革しようとさえ考えていた。

しかし、久光はまったく別の構想をもち動いていた。
久光は朝廷に幕府改革を行わせるようプレッシャーをかけていた。
幕府に攘夷させ、自分が五大老として実権を握る案を朝廷から幕府につきつけさせていたのだ。

久光は朝廷の交渉担当の公家の護衛を名目に千人の薩摩藩兵と大砲を京都に入れ、自分の計画通りにことが進むように、攘夷派として不穏な動きをしている人々、家臣たちも抑えつけた。

これをいぶかしんだ薩摩の尊王攘夷派は1862年4月23日、寺田屋に集まり相談していた。
これが久光の逆鱗にふれ、討手が送られた。
討手は説得するもかいなく決裂し乱闘となり、尊王攘夷派8人、討手側1名が死亡した。

寺田屋騒動記念碑


この事件の影響は大きく、京都は久光・薩摩の勢力下となった。

なぜ寺田屋だったのか

寺田屋は伏見にある。
伏見は京の都から離れているが、宇治川が大阪の淀川へと繋がっていて大阪からの物流の拠点であった。

船宿が12,3軒あり、寺田屋もそのうちの一つで薩摩藩の定宿だった。

薩摩藩は伏見に薩摩島津伏見屋敷もおいていた。

荷を運んだ十石船のクルーズが体験できる

寺田屋前の運河

寺田屋坂本龍馬襲撃事件。坂本龍馬襲撃されるも難を逃れた。

1966年3月、坂本龍馬が京の宿として利用していた寺田屋に滞在していたところを、幕府・伏見奉行の役人たちが襲撃した。

刀痕

弾痕

龍馬が襲われた部屋

なぜ龍馬は襲撃されたのか

寺田屋事件の後。
長州藩が尊王攘夷派で、外国嫌いの朝廷にくいこむも、強引にやりすぎて朝廷から追い出された。
追い出したのが薩摩藩ということで、長州藩・薩摩藩は敵となるが「新しい国づくりのために」和解することとなり1866年1月薩長同盟が結ばれた。
和解を仲介したのが、土佐藩の坂本龍馬らだ。

力のある長州藩と薩摩藩の連携は、幕府にとって脅威。
龍馬は危険人物であった。

役人は大人数であったが龍馬側は護衛と2人。
龍馬はピストルで応戦し脱出に成功し、伏見の薩摩島津伏見屋敷に逃げこんだ。直線距離でおよそ830メートル。

龍馬が使ったものと同じ型のピストルの模型

寺田屋 裸のおりょうさん伝説

役人が寺田屋を囲んだ際、龍馬の恋人おりょうは入浴中で異変に気付き、裸で龍馬に知らせた。そのおかげで、龍馬は戦う準備を整えることができた。
というエピソードが有名。寺田屋では現在、そのお風呂もみることができる。

しかし、半藤一利さんは著書『幕末史』で”戸を叩いた役人に寺田屋の女将・お登勢が普通に対応したと”いうお登勢さんが龍馬へ宛てた手紙を紹介している。

龍馬は翌年1867年、京都河原町通の近江屋で暗殺された。
犯人については諸説ある。

幕末はなぜ薩摩藩、長州藩が活躍したのか

薩摩藩、長州藩には共通点がある。
それは、関ケ原の戦いで東軍・徳川の敵、西軍として戦い、江戸幕府下では外様大名として冷遇されていた藩だということ。

他にも外様大名はいるが、薩摩藩、長州藩は経済力があった。
薩摩藩は琉球を通して中国と、長州藩は対馬を通して朝鮮や中国と貿易を行い繁栄していた。

外様大名

NHK for Schoolウェブサイト「江戸幕府のしくみ」

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