【東福寺】東大寺の[東]、興福寺の[福]を合わせて東福寺。京都最大で最強の禅寺

◎通天橋は紅葉名所
◎昭和の庭師による枯山水庭園「八相の庭」がある
◎京都最大の大伽藍(寺院内寺院ほか施設)からなる
◎京都五山第四位

ゆかりの人物:九条道家(創建)、聖一国師(開山)、安国寺恵瓊(東福寺住職、秀吉側近)、文英清韓(東福寺住職、方広寺の鐘に「国家安康」の文字を入れた。)
創建:鎌倉時代

東福寺 最大最強の禅寺

東福寺(とうふくじ)は、鎌倉時代に建てられた臨済宗[禅宗]の寺。
国家の総元締めの寺である奈良の「東大寺」の「東」と、藤原氏の氏寺であり最も隆盛をきわめた奈良の「興福寺」の「福」を合わせた最大・最強の寺として建立された。

東福寺 おもなみどころ

東福寺三名橋

東福寺の敷地内を東西に川が流れている。
川の南側に三門、本堂があり川をはさんで北側に開山堂がある。

川をわたるための橋が3本かかっている。

それが東から偃月橋、通天橋、臥雲橋で東福寺の三名橋とよばれる。

元地図は東福寺HPより

偃月橋(えんげつきょう)【重要文化財】

通天橋(つうてんきょう)


「映え」スポットでおなじみの橋。
本堂から開山堂をむすぶ。
ここから見るモミジが素晴らしく、特に紅葉のシーズン中は多くの人が訪れ拝観料も値上がりするほど。
新緑の季節も萌え。

臥雲橋(がうんきょう)


東福寺駅から歩いて最初に出会う橋。

開山堂


東福寺を開いた僧侶、聖一国師が祀られている。
屋根に楼閣をいただく変わった建物。

愛染堂【重要文化財】

八角型をしており八角円堂ともいわれる。
和唐両様折衷のかわいらしい建物。
なかに安置されている愛染明王は恐ろしさのなかにも親しみやすい印象で魅力的。

普門院

普門院前庭園


江戸中期の庭。
枯山水と池泉を合わせた小さな名園。

方丈庭園 八相の庭

昭和の日本庭園の研究者であり作庭家の重森三玲(しげもりみれい)による庭園。
八相とは、「蓬莱(ほうらい)」「方丈(ほうじょう)」「瀛洲(えいしゅう)」「壺梁(こりょう)」「八海」「五山」「井田市松(せいでんいちまつ)」「北斗七星」の八つ。
釈迦の生涯の八つの重要なできごとにちなんだもの。

方丈を囲うかたちで、南庭、西庭、北庭、東庭がある。
すべて重森三玲によるもの。

南庭 「蓬莱(ほうらい)」「方丈(ほうじょう)」「瀛洲(えいしゅう)」「壺梁(こりょう)」「八海」「五山」


神仙世界が表現されている。
枯山水の庭に、
方丈(ほうじょう)島、蓬莱(ほうらい)島、瀛洲(えいしゅう)島、壺梁(こりょう)島
にみたてた石が置かれている。
いずれも、不老不死の仙人が棲むとされる島。
渦巻く砂紋は「八海」を表す。

五山

五つの築山は、京都五山を表現している。

西庭 「井田市松(せいでんいちまつ)」


刈り込まれた皐月が市松模様に配置されている。

北庭


苔と石が市松模様に配置されている。

東庭 「北斗の庭」


北斗七星の庭。
石柱が7本で北斗七星に立てられている。
東司の礎石として使われていた廃材が利用されている。

鎌倉時代創建。京都に禅寺を

東福寺は、創建の時代と創建者にスポットをあててみるとあじわいぶかい。

混乱の鎌倉時代、第4代征夷大将軍藤原頼経の父九条道家が建造

東福寺は、創建が鎌倉時代の中期1236~1255年。

鎌倉中期は、初代・源頼朝が鎌倉に幕府を開いたものの、2代・頼家、3代・実朝が殺されるという混乱の時代だ。
実権をにぎっていたのが北条氏。

その北条氏によって4代・征夷大将軍に招かれたのが、藤原系の藤原頼経(ふじわらのよりつね)だ。
頼経は源氏と遠縁ながら血縁関係にある強みがあった。

頼経の父親が九条道家(くじょうみちいえ)、この道家が東福寺を建立した。

九条道家、京都に最大最強の禅寺・東福寺を建てる

藤原頼経が征夷大将軍になったのが1226年。
父・九条道家は2年後の1228年に関白になった。
この世の春である。

ここで道家が行ったのが、最大の禅宗の寺を建てるということ。
禅宗は、鎌倉武士の間で新しい仏教として支持を集めるようになっていた。
禅宗が武士にうけいれられたわけは、2つ考えられる。
・これまでの奈良の仏教や天台宗・真言宗などは天皇はじめ貴族が信仰するためのものであったが、座禅と問答によってさとりをひらく禅宗の教えが武士にあった。
・当時、中国では元が勢いを増していて、南宋の禅僧たちが弾圧を恐れ日本へ亡命するケースが増えた。これらの僧はアジアの国際情勢に詳しく、外交面で助けになり、禅僧を保護した。
道家は到来した武家時代の新しい仏教・禅宗の拠点を京都に設けたわけだ。

もともと藤原家の菩提寺であった法性寺を東福寺に変えるという渾身ぶり。

東福寺は奈良の最大の寺「東大寺」の「東」、奈良の最も隆盛をきわめた「興福寺」の「福」をとり、最大・最強の寺であることを示した。

広さや配置される寺社・建築物も壮大で、東大寺、興福寺に負けない京都最大のスケール造営された。

壮大な寺社・建築物は伽藍といい、伽藍が多い様子から「東福寺の伽藍面(がらんづら)」とよばれる。

東福寺が完成したのは1255年だが、その頃には道家は失脚のあと死去し、頼経も北条氏との勢力争いに敗れ1252京都に送還され、1256年には病死した。

東福寺 京都五山の第四位

禅寺には五山制度という格付けがある。
鎌倉幕府が他宗教から禅宗・臨済宗を保護するために設けた制度で、室町時代に確定されていった。

ランキングは時の政権の力関係などで恣意的にしばしば改変があり意味付けや経緯は複雑であるが、ベスト5とそれのさらに上位の五山の上の6ランクがあり、東福寺は第四位に位置付けられている。

五山の上 南禅寺
第一位 天龍寺
第二位 相国寺
第三位 建仁寺
第四位 東福寺
第五位 万寿寺(東福寺塔頭)

東福寺ゆかりの歴史に登場する有名な僧

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)

戦国時代、東福寺の僧となる。
おなじ臨済宗の寺院、南禅寺、建仁寺にもかかわった。
その後、毛利家につかえているところを豊臣秀吉のめにとまり秀吉の側近に。
関ケ原では石田三成側で戦い敗北し、斬首された。

文英清韓(ぶんえいせいかん)

安国寺恵瓊の後、頭角を現す。
有名なエピソードとして、方広寺鐘銘事件がある。
豊臣秀吉の死後、後を継いだ秀頼が方広寺を再建した際、寺の鐘に記された文字に「国家安康」「豊臣豊楽」とあり、これが家康方から「家と安を分断している(「国|家|安|康」)」。「”豊臣を君主として楽しむ”の意味をこめている」と問題視され、のちの大坂冬の陣開戦の契機となったというもの。

この文面を起こしたのが文英清韓。
清韓は「詩文では字を隠して入れて人の徳を褒めたたえることがある」と洒落であると弁明したが、ほかの京都五山の僧から異論がでて、家康は異論の方を採用した。


国宝

三門

重要文化財

開山堂(常楽庵)
禅堂
東司
浴室
偃月橋
愛染堂

国指定名勝

本坊庭園

宗派

臨済宗

日本のおもな宗派

密教系 天台宗
真言宗
浄土宗系 浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系 臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

東福寺ホームページ

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