【相国寺】足利義満創建、伊藤若冲が修行したことがある

◎金閣寺、銀閣寺の親分
◎京都五山の第2位
◎応仁の乱の東軍の陣地だった
◎伊藤若冲の作品がある

ゆかりの人物:足利義満。伊藤若冲(江戸時代の画家)。
創建:室町時代

相国寺は足利義満が創建した

足利義満はなぜ寺を作ろうと思ったか。

義満は11歳で征夷大将軍になり、巨大な権力を持つようになった。
1369年、室町幕府第3代将軍となった義満は幼少の頃祖父・足利尊氏が建てた天龍寺において修行をしていたことがあり、自分はさらに立派な寺を建てたいと考えていたのだ。

相国寺は室町幕府「室町殿」「花の御所」の隣

義満は、幕府の場所を現在の京都御苑の西側に定めた。
室町通りに面していたことから室町殿、室町第(むろまちてい)とよばれる。

花の御所と相国寺位置

原地図は「中昔京師地圖 : 全内容年代 1467-1592」国際日本文化研究センター提供

室町殿は「花御所」の別名ももつ。
ここは、もとは公家の西園寺実藤(さいおんんじさねふじ)の邸宅だったところで「花亭」とよばれていたことに由来する。「花亭」は桜の名所の意味。
後にこれを足利義満の父・義詮が買い崇光上皇に提供し、上皇が住んだことで「花御所」とよばれるようになった。
「花御所」は崇光上皇の死後焼失したが、後を義満がもらい受け再び「花御所」として再建した。
その名のとおり、各地の名園から集めた花が庭園に美しく咲いていた。

花の御所


義満は、この東隣を相国寺の敷地とした。

相国寺の名の由来

義満は、征夷大将軍に任命された後、朝廷で天皇の次にえらい左大臣に出世していた。
義満が天龍寺で修行していた時の師の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)和尚が「中国では左大臣を相国というので相国寺としては?」と提案し、名づけられた。

相国寺は金閣寺、銀閣寺の大本山

金閣寺も義満が創建し、銀閣寺は8代将軍・義政が創建し、相国寺の塔頭寺院の一つ。

金閣寺は3代将軍・義満が出家後に建てた

義満は38歳のときに出家した。
権力は弱まるどころかさらに強力になった。
鎌倉時代に西園寺公経(さいおんじきんつね)の山荘で優雅で有名だった北山にめをつけ、この地を手に入れ豪華な建築・庭園を造営した。
義満の死後、遺言により寺とされ「鹿苑寺」とよばれるようになった。鹿苑は義満の法名(出家した者の名)鹿苑院から。

銀閣は8代将軍・義政が応仁の乱後に建てた

足利義政の時代は、応仁の乱の時代(1467~1477年)。妻は日野富子。

3代将軍・足利義満の時代が室町時代の最盛期だったのにたいし、8代将軍・義政の時代は斜陽の時代だった。
義政将軍下の政治は混迷、守護大名の勢力争いが激化しており、そこに義政の後継者問題が起こり、応仁の乱へと続いていく。

応仁の乱勃発のきっかけ


結果は義尚が将軍に就任。
乱が終わって間もない頃、義政はもともと趣味だった造園にさらに固執し魂の安住の地を求め東山に山荘を造った。
その完成前に義政は亡くなる。
死後、義政の法名・慈照院にちなんで慈照寺と呼ばれる。

相国寺は京都五山の2位

京都五山は決まっていたが相国寺が割り込んだ

相国寺創建時は、京都五山は決まっていた。
五山は、幕府が禅宗・臨済宗を保護する目的で設けられた制度。

1.南禅寺〔亀山法皇〕
2.天龍寺〔足利尊氏〕
3.建仁寺〔源頼家〕
4.東福寺〔摂政九條道家〕
5.万寿寺(東福寺塔頭)
〔 〕は創建者。

義満は、どうしても相国寺を五山に入れたかった。
ここで、創建に携わった僧の1人義堂周信(ぎどうしゅうしん)がウルトラCを考えた。
南禅寺は天皇によって建立されたから「五山の上」に上げればよいと。
ということで、

|五山の上 南禅寺
|五山
1.天龍寺
2.相国寺
3.建仁寺
4.東福寺
5.万寿寺

ということになった。

ちなみに、当初中心だったのは鎌倉五山。
|鎌倉五山
1.建長寺
2.円覚寺
3.寿福寺
4.浄智寺
5.浄妙寺

相国寺は禅寺

そもそも、五山は禅宗の寺のランキング。
禅宗は鎌倉時代に伝わり、武士に支持された。
禅宗はこれまでの公家の仏教とは別の宗教で、自己の鍛錬によって悟りを開く姿勢が武士に合っていたといわれる。

相国寺は応仁の乱の東軍の陣地

西陣が応仁の乱の西軍が陣をかまえたことが由来であることは有名だ。
一方東軍が陣としたのが相国寺だ。

東軍:細川方、足利義政、日野富子、義尚ら
西軍:山名方、足利義視ら

原地図は「中昔京師地圖 : 全内容年代 1467-1592」国際日本文化研究センター提供

伊藤若冲が修行したことがある

寺院は文化芸術の発信地で、人々の交流の場所でもあった。
相国寺の大典(だいてん)住職は京の絵師など文化人を支援していて、若冲の才能もいち早く見出した。
若冲も大典を師として禅の教えを学んだ。
若冲の名も大典が命名したといわれている。

彩色花鳥画「動植綵絵(どうしょくさいえ)」は特に有名。

『動植綵絵』の「群鶏図」


動植綵絵は、廃仏毀釈で相国寺が立ち行かなくなった際、宮内庁に献上され、引き換えに金1万円が下賜され窮地をしのいだ。
現在も、宮内庁で管理されている。

見どころ ここを見逃すな

承天閣美術館

併設の美術館。
相国寺の正式名称は「萬年山相国承天禅寺」なので、この名がある。

若冲の「釈迦三尊像」「鹿苑寺大書院障壁画」「竹虎図」などのほか、雪舟、長谷川等伯、丸山応挙などの名作品が多数収蔵されている。
企画展が開催され合わせた作品が公開されるのを待つことになるが、「鹿苑寺大書院旧障壁画 月夜芭蕉図床貼付」と「葡萄小禽図床貼付」は常設展示されていて必見。

蟠龍図

特別公開時に拝観が可能。
蟠龍図(ばんりゅうず)は、法堂の天上に描かれた龍。
真下に立って手を打つと共鳴が響き「泣き龍」とよばれる。
絵師・狩野永徳の長男・狩野光信の作品。

相国寺拝観チケット

宗旦稲荷


江戸時代、相国寺の藪に「宗旦狐」が棲んでいたといわれる。
宗旦(そうたん)は千利休の孫の千宗旦のことで、宗旦狐は宗旦に化けてお点前を披露したり和尚と碁をうったりしたそう。
宗旦狐は油揚げを盗んで追われ井戸に落ちて死んだとか、猟師に撃たれて死んだなどといわれている。
宗旦狐は人々を喜ばせていた面もあり、修行僧が悼んで祠をつくり供養し、それが現在の宗旦稲荷に続いている。

藤原定家、足利義政、伊藤若冲の墓

相国寺の墓地には鎌倉時代に亡くなった公家・藤原定家、戦国時代に亡くなった将軍・足利義政、江戸時代に亡くなった絵師・伊藤若冲のお墓が並んで建っている。
もともと別々の場所にあったものを戦後整理してここにまとめたもの。

行き方は↓


京都府指定有形文化財

総門
方丈

相国寺承天閣美術館所蔵 国宝

無学祖元墨蹟 与長楽寺一翁偈語
玳玻散花文天目茶碗
ほか全5点。

相国寺承天閣美術館所蔵 重要文化財

鹿苑寺大書院障壁画 月夜芭蕉図 伊藤若冲筆
竹林猿猴図屏風 長谷川等伯筆
ほか全145点。

宗派

臨済宗相国寺派[禅宗]

日本のおもな宗派

密教系 天台宗
真言宗
浄土宗系 浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系 臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

相国寺ホームページ

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