【京都御苑】蛤御門の変の弾痕が残る

◎蛤御門の変での弾痕がある
◎九条邸跡、桂宮邸跡など公家の邸宅跡がある
◎厳島神社など公家の鎮守がある
◎閑院宮邸跡収納展示館で公家の世界がみられる

時代:平安時代~江戸時代

京都御苑とは


京都御苑(きょうとぎょえん)は京都御所を取り囲んでいる敷地をいう。
もともと公家の居住地だったところ。

公家がこの場所に集まって住むようになったのは安土桃山時代の頃からで、それ以前は市街地に住んでいた。
織田信長や豊臣秀吉の時代に集められ、邸宅は200軒もあった。

1686年の御所。京大繪圖 新撰増補、画像提供:日本文化研究センター

明治維新により都が東京に移った。
それに合わせ1869年に皇居も移転し、その後荒れ果てたが、明治天皇の時代に保存事業が行われ、現在の「京都御苑」となった。

みどころ 門

蛤御門

蛤御門の変でおなじみの門。

柱には銃弾の跡が残っていて雰囲気を味わうことができる。

蛤御門の変とは

幕末、朝廷から追い出され権力を失った長州藩が奪還すべく御所に攻め入り、結果敗れた戦い。

外国勢排斥派 vs 開国派

幕末、日本は外国勢を排斥するか開国するかで揺れていた。

朝廷は孝明天皇が外国勢排斥の考え。
長州藩も外国勢排斥派。
排斥派はほかに薩摩藩などがあった。

排斥派と開国派の間では実権を握ろうと、暗殺・報復のテロ活動が繰り返されていた。

このようななか、長州藩は、権力闘争に2回敗北している。

1度目は「八月十八日の政変」
2度目は「蛤御門の変(禁門の変)」

八月十八日の政変。朝廷と蜜月だった長州藩が京都から追放される。

排斥派の長州藩は外国人嫌いの朝廷に強い影響力をもった。

なぜ朝廷が重要か
鎌倉時代以降、実際に力をもっていたのは武家であったが、朝廷の権威は幕末も続いていた。
朝廷が「征夷大将軍」に任じることではじめて武家の長としてみとめられるというしくみが古来から継続していたため。

つまり、有力藩は朝廷とうまくやる(朝廷を利用する)ことで主導権を握ろうと考えていたからだ。

一方、薩摩藩は公家を殺害した疑いで朝廷から反逆者扱いされ、失脚した。
藩それぞれの力が強くなり、徳川幕府の存在感は弱まった。

長州藩は朝廷にたいし自らの考えを強要するようになり、朝廷は徐々に長州のやり方に反感を持ち、言いなりになってばかりいられないと思うようになっていった。

この機をみて動いたのが、薩摩藩だ。
薩摩藩は長州藩を朝廷から排除して権力を手に入れようと考えるが、1藩では力が足りないため、会津藩と同盟を組んだ。

会津藩の松平容保は徳川幕府・一橋慶喜の親戚筋で、京都守護職を務めていた。
当時将軍は徳川家茂であったが、若かったため慶喜が後見役として政治を行っていた。

京都守護職は、都でテロ活動が活発化した時に、幕府だけでは手が足りないということで幕府が松平容保に頼んで朝廷守護のために新設された組織。
会津藩兵で構成されていた。

会津藩の仕事ぶりは献身的で孝明天皇の信頼を得ていた。

1863年8月18日、薩摩藩・会津藩の兵士が長州藩や三条実美ら急進的な排斥派の公家を排除しようと、御所の門を閉鎖し追い込んだ。
長州藩は対抗したものの人数で及ばず、長州藩と急進的公家は京都から追放された。

これが八月十八日の政変。

蛤御門の変(禁門の変)。長州藩、池田屋事件でつぶされるも再び反撃。そして完敗。

池田屋事件。新選組、長州藩らを殺害

長州藩は八月十八日の政変で京都から追放されたが、復権を画策していた。
長州藩を中心とした外国勢排斥派は京都の旅籠屋・池田屋に集まって御所を襲う計画をたてていた。

この計画がバレる。

かぎつけたのは新選組だ。

新選組は、京都を守るのが会津藩だけになり警備が手薄になった時に、会津藩の京都守護職・松平容保の手下として町の治安にあたっていた浪士集団。

もとは、山形県出身の志士・清川八郎(きよかわはちろう)が将軍を守るためにと集めた人々。

新選組は池田屋を襲い、長州藩ら外国勢排斥派の中心的人物を殺害した。

蛤御門の変。長州藩反撃、完敗す。

池田屋事件で仲間を殺害された長州藩は怒る。
反撃に立ち上がり、京都守護職の松平容保らを排除するべく京都・御所へ向かった。

御所では、会津藩、薩摩藩、桑名藩(徳川家に仕える松平定綱が藩主)が待ち受けていた。

1864年7月、長州藩の来島又兵衛(きじままたべえ)が強引につっこんだのが蛤御門。
ここで大激戦となった。

鉄砲、大砲を撃ち合った結果、長州藩は敗北し、朝廷に敵対したとして「朝敵」となった。

地図画像提供:日本文化研究センター、内裏図、内容年代1863年

戦争により大火災が発生、京都全域に広がり「どんどん焼け」といわれた。地図画像提供:日本文化研究センター、文久改正京都指掌圖

蛤御門の変以降、京都は会津が主導権を握るが、孝明天皇が死去し幼い天皇が即位すると討幕派がのしあがってくる。
そして、薩長同盟―大政奉還―王政復古の大号令―鳥羽・伏見の戦い へとなだれ込んでいく。

みどころ 公家邸跡

公家には絶対的「格」がある。
序列最上は
[五家]

近衛九条二条一条鷹司
次に、三条西園寺ほか。

四親王も御苑に公邸を構えていた。

閑院宮(かんいんのみや)、伏見の宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、有栖川宮(ありすがわのみや)

これら公邸跡やまつわる建物を見ることができる。

江戸時代の公邸の場所。地図画像提供:日本文化研究センター、内裏図、内容年代1863年

近衛邸跡


近衛邸は古くから糸桜の名所。糸桜は早咲きの桜。
現在邸跡の池のまわりに植えられているのが枝垂れ桜。枝垂れ桜は遅咲きの桜。

九条邸跡

拾翠亭(しょうすいてい)

江戸時代後期に建てられた茶室。現存していて、見学が可能。

池や庭園も見学できて楽しい。

一条邸跡

県井(あがたい)の跡
県井は京都三名水の1つでその跡が残る。
京都三名水は、梨木神社の染井(そめい)、六条堀川館の佐女牛井(さめがい)。現在も使用されているのは染井だけ。

閑院宮邸跡

閑院宮邸跡収納展示館
建物、庭園が公開されている。

雨戸のように扉が収まるようになっている

学習院跡
江戸後期に即位した第119代光格天皇は、学問を重んじた。その流れをくみ、第121代孝明天皇は学習院を開校した。
ここで公家や役人が国学や歴史を学んだ。
現在は跡の碑が立っている。

みどころ 神社

御苑内に小さな神社がいくつかある。
いずれも公家にまつわる所以がある。

厳島神社

九条邸跡、九条池の中島に厳島神社がある。

平安後期に平清盛によって神戸に創建されたものが九条家の鎮守として、ここに移された。

鳥居の上部が曲線になっていて特徴的

池を渡る橋は1882(明治15)年、明治天皇が行幸する際に架けられたもの。

白雲神社

西園寺家の守護神。

御所のへそ石

手でなで患部をさすると治るといい伝えられる薬師石がある。

宗像神社

平安遷都の翌年、藤原冬嗣が宗像三女伸を祀ったことが始まり。
宗像三女神は天照大神の女神3人。

みどころ 猿ケ辻

日本では「北東」の方角を鬼が出入りする方向「鬼門」といい縁起の悪い方向として考えられている。
御苑でも築地塀の北東の角を削って鬼を防いでいる。
この削られた角は猿ケ辻(さるがつじ)とよばれる。

猿ケ辻

通常の角



京都御苑ホームページ

関連記事