【高山寺】鳥獣人物戯画はなぜ高山寺にあるのか 誰が描いたのか

◎鳥獣人物戯画がある。
◎湛慶作とみられる子犬の木彫りがある。
◎日本最古の茶園がある。

ゆかりの人物:明恵上人(高山寺中興)
創建:鎌倉時代

高山寺 明恵上人と鳥獣人物戯画


高山寺(こうさんじ)で有名なのが鳥獣人物戯画。
手ぬぐいの柄にもなるほど有名な画だ。

この鳥獣人物戯画が高山寺にあるのも、高山寺を作った僧=明恵(みょうえ)上人あってのことと考えられる。
(鳥獣人物戯画原本は京都国立博物館、東京国立博物館に収蔵されている)

高山寺の明恵上人

明恵は鎌倉時代の僧。
9歳の時神護寺に入り、以後東大寺、建仁寺などで学んだ。

神護寺は高山寺の近くにある、平安時代に創建された真言密教の寺。空海が住んでいた。

20数年後の1206年、奈良時代に開かれた神護寺の別院であった寺院を鎌倉時代に後鳥羽上皇から任せられ、復興して寺名を高山寺とした。

明恵は、仏眼仏母像(ぶつげんぶつもぞう)の前で仏道に打ち込む志を表すために右耳を自分で切り落とすなど極端さをもちながらも、限られた宗派や教説にとらわれず学問に邁進した。

明恵が前で右耳を切り落とした仏眼仏母 (高山寺蔵)

高山寺は学問所として歩み続け、貴重な聖教、典籍、文書類が伝えられ「高山寺典籍文書類」はまとめて重要文化財に指定されている。

また、聖教以外の多くの美術工芸品も伝わり、とくに個性的な作品が多く集まっている。

鳥獣人物戯画が高山寺にあるのも、この流れの一環と考えられる。

高山寺 鳥獣人物戯画

高山寺 鳥獣人物戯画はなぜ高山寺にあるのか

いまだ謎で決定的な結論は出ていない。
ヒントがある。
———-
高山寺が再興されたときには、すでに鳥獣人物戯画は存在していた。
なので、鳥獣人物戯画は高山寺で作成されたものではなく、どこかから持ち込まれたものである。
———
ではどこから? ということになる。

これについては、高山寺には多くの美術工芸品が集まっているなかで、白描図像に注目して推察がされている。

白描図像は、仏の姿や印相、持ち物、眷属などを主に筆の墨線だけで描いたもの。
ちょうど、鳥獣人物戯画のような表現方法。
特に密教で多く描かれた。

白描図像を描画・収集した高野山月上院(げつじょういん)の玄証(げんしょう)という人の白描図像が高山寺に伝わったことがわかっている。

このなかに鳥獣人物戯画があったというわけではないが、この例のように、鎌倉時代という武士が権力を持ち宗教も新しい仏教(浄土宗、浄土真宗、禅宗など)が台頭してきた時代に始まり、宗派の枠を超えて学んだ広いネットワークをもつ明恵が僧となった高山寺に多くの白描図像が集まってきたのでは、という見方がある。

高山寺 鳥獣人物戯画は誰が描いたのか

これもいまだ謎で決定的な結論は出ていない。
二つの可能性が挙げられている。
寺院に属する絵仏師
=白描図像を描く。
宮廷絵師
=世俗画を描く。

このうち可能性が高いのは寺院に属する絵仏師ではとの見方がある。

技法的にはどちらも似ていて決定打はないが、使用された紙が異なる。
鳥獣人物戯画に使用されているのは寺院の文書類などで日常的に使われるもので、絵画作品に使われるものではないということだ。

天台宗の僧=鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)といわれていた説は現在否定されている。

高山寺 志賀直哉が惚れた 木彫りの子犬

高山寺の美術品のなかに動物彫刻が多くある。
そのなかでも木彫りの狗児(子犬)は愛らしさが傑出していて、明恵がそばに置いてかわいがった。
湛慶(仏師運慶の息子)作と伝わる。

高山寺パンフレットより

志賀直哉が「時々撫で擦りたいような気持のする彫刻」と書いたそう。

高山寺 日本最古の茶園

高山寺には茶園がある。
「高山」ブランドのお茶も販売されている。

お茶を広めたといえば、鎌倉時代の禅宗の僧=栄西。
高山寺の明恵は禅を学ぼうと栄西に教えをもとめ、そこに接点があった。
栄西が明恵に茶を進呈し、明恵は高山寺内に植えた。
これが日本最初の茶園。

お茶は覚醒作用があるため、修行中の眠気を覚ます飲み物として僧の間に浸透していった。


国宝

石水院
明恵上人樹上坐禅像
鳥獣人物戯画
仏眼仏母像
ほか。

重要文化財

明恵上人坐像
善妙神像
白光神像
木彫りの狗児
薬師如来像
狛犬
神鹿
菩薩像
華厳海会諸聖衆図
ほか。

宗派

真言宗

日本のおもな宗派

密教系天台宗
真言宗
浄土宗系浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

高山寺ホームページ

関連記事