【方広寺】「国家安康・豊臣豊楽」の鐘がなにげなくある寺

◎豊臣秀吉が創建した。
◎「国家安康・豊臣豊楽」の鐘が現存。
◎巨大な大仏殿と大仏があった。

ゆかりの人物:豊臣秀吉(創建)
創建:安土桃山時代

方広寺は巨大な敷地と大仏が存在していた

方広寺(ほうこうじ)は、1595年に豊臣秀吉によって創建された。
現在の方広寺はこじんまりした敷地にあるが、当初は広大であった。
現在の三十三間堂、京都国立博物館あたりまで及んでいた。

そしてそこに巨大な大仏殿と大仏が造立されていた。
大仏殿は現在の京都国立博物館の位置にあったという(参考資料:宮元健次『京都格別な寺』)。

再建後2代目大仏殿

現在の地図

方広寺はなぜここまで広いのか

秀吉は奈良・東大寺とその大仏よりも巨大で豪華な寺と大仏をつくろうと考えた。
東大寺は奈良時代の権力者・聖武天皇が建てた寺。
秀吉は聖武天皇に自らを重ねたかったのだ。

方広寺がこの場所に建てられたわけ

方広寺が建てられたあたりは、平安時代、後白河上皇の御所・法住寺殿があり、その仏堂とし平清盛によって三十三間堂が建てられたエリア。
もともと平氏一族の居住地で鎌倉時代に六波羅探題がおかれた地も周辺にある。

秀吉は清盛、源頼朝を理想としており、この地にあやかったとも考えられる。

方広寺の周辺には秀吉に関係する、耳塚や秀吉の長男・鶴松の菩提寺である祥雲寺も建てられた(祥雲寺は徳川家康に別の「智積院」に替えられた)。

たびたびの地震・火災による焼失

方広寺は1595年に豊臣秀吉によって創建された。
その後、たびたび地震、落雷、失火で損壊にあい、現在は大仏殿・大仏は跡形もない。
現在は大仏殿の跡に豊国神社が建てられており、大仏殿の石垣が周りを囲っている。

大仏殿跡の石垣


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1595年 方広寺創建
1596年 地震で大破
1598年 秀吉死去
1600年 関ケ原の戦い。徳川家康が権力をもつ
1612年 秀吉のあとを継いだ秀頼が再建
1614年 大坂冬の陣
1789年 落雷により焼失
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「国家安康」「豊臣豊楽」方広寺鐘銘事件

1612年秀頼が方広寺を再建し、1614年梵鐘が完成した。
この梵鐘が「方広寺鐘銘(しょうめい)事件」で有名な梵鐘だ。
完成した梵鐘には銘文が刻まれ、そこに「国家安康」「君臣豊楽」の文字がもりこまれていた。
この文字について家康方から「家と安が分断されており(「国|家|安|康」)、家康を切れば国は安らかになると読める」。「”豊臣を君主として楽しむ”の意味をこめている」と問題視され、のちの大坂冬の陣開戦のきっかけとなったという逸話が有名だ。

「国家安康」「君臣豊楽」の文字を書いたのは京都五山のひとつ東福寺住職の文英清韓(ぶんえいせいかん)。
本人は洒落だと弁明したが、ほか五山の主だった僧は「もっての他」と非難。
家康は非難のほうを採用し、討幕の契機としたのだ。

この梵鐘が現在の方広寺になにげなく建っている。


重要文化財

梵鐘

宗派

天台宗

日本のおもな宗派

密教系 天台宗
真言宗
浄土宗系 浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系 臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

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