【東寺(教王護国寺)】空海の寺 寺全体が立体曼荼羅

◎空海の寺
◎平安京創建当初の姿をとどめている
◎立体曼荼羅がある
◎五重塔は5代目
◎楠木正成が射た矢の跡がある

ゆかりの人物:空海
創建:平安時代

東寺は平安京創建の2年後に創建 796年

東寺(とうじ)は平安京が創建された際、その一部として建設された。
平安京の一番南に位置し大内裏(皇居)を守護する寺であった。
当時は西寺もあった。

平安京の立地

原地図は『花洛往古圖 京の水内容年代 794-不明』国際日本文化研究センター提供

東寺は、以降いくども火災に見舞われたが、現在も平安京創建当時の姿を残している。

京都のランドマーク、東寺の五重塔はいつなぜ建てられたのか


初代の五重塔が完成したのは883年(平安時代)。
東寺創建から87年がかかった。

五重塔の意味

五重塔は寺の権威がみてとれる。
五重塔には、釈迦の遺骨が納められているからだ。
東寺の五重塔には、空海が唐から持ち帰った釈迦の遺骨が納められている。

塔に遺骨が納められるのはインドが起源で、インドではお椀を逆さにしたようなお墓でストゥーパとよばれていた。
これが、中国から日本に伝わる間に高くなり、五重塔の形に変化していった。

五重塔の内部

密な空間に複数の仏像による豪華絢爛の密教世界が表現されている。
塔の中心の「心柱」を中心に、その周りに如来・菩薩が囲んでいる。

普段は非公開で、1月1,2,3日に特別公開される。

現在は5代目

東寺の五重塔は最初に完成したのが883年、現在の塔は1644年に徳川家光の支援で建てられたもの。

五重塔5代目への軌跡
◎初代 883年(平安時代)。

焼失。
◎2代目 1086年(平安時代)再建

焼失。
◎3代目 1293年(鎌倉時代)再建

焼失。
◎4代目 1593年(安土桃山時代)再建。豊臣秀吉の母大政所が檀主となって資金を調達。

焼失。
現在5代目 1644年(江戸時代)再建。徳川家光が資金提供。

東寺と空海

空海

東寺建立はいつ始まっていつ終わったか

東寺の建立は平安京が開かれたすぐ後の796年から開始された。
現在のような姿になるのは空海が東寺を任されることになった823年。

空海が無名の僧から人気密教僧になるまで

空海は密教の最高位を授かり帰国する

空海は、804年遣唐使として唐に留学し、806年に帰国した。
空海はまだ無名の僧だったが、密教界の第1人者・唐の恵果について学び、真言密教の最高位を授けられた。

恵果

空海の前に帰国した最澄

空海と同時期に留学した僧に最澄がいる。

最澄


最澄は804年に遣唐使留学し、空海より1年早い805年に帰国していた。
最澄は天台教を学ぶことが主で密教は”サブ”的に触れてきていた。

最澄の帰国で密教ブーム

密教は、インドに生まれ中国で体系化された当時最新の宗教で人々の関心を集めていた。
最澄が帰国し紹介したことでブームが起こった。

ブームのなかで空海帰国

密教ブームのなかで空海が密教の専門家として帰国したことで、空海は完全に”箔”がついていた。

空海を東寺によんできたのは嵯峨天皇

空海は最初から東寺にかかわっていたわけではない。
空海が東寺を任されるようになったのは、823年、嵯峨天皇の命による。

嵯峨天皇と空海の関係のはじまり

嵯峨天皇と空海はある出来事によって交流が深まった。
それは薬子の乱(810年)だ。

嵯峨天皇は52代天皇。
平安京を創建したのは、50代桓武天皇。
51代に平城天皇がいた。
平城天皇は嵯峨天皇の即位後、再び権力をとりもどそうと平城京遷をもくろんだ。

ここで、52代嵯峨天皇と51代平城天皇が争った(薬子の乱)。

この時、嵯峨天皇に味方して国の混乱を鎮める祈りをささげたのが空海だった。

以後、嵯峨天皇の空海への信頼は高まり交流が深まっていた。

なぜ嵯峨天皇が空海に東寺を与えたのかはわかっていないが、一説として、
嵯峨天皇が空海に東寺を与えたのが823年1月で、
譲位したのが823年4月ということから、嵯峨天皇から空海への最後の贈り物だったのでは、ともいわれている。

東寺は真言密教の寺

東寺は真言密教の開祖空海により、真言密教の根本道場(中心の道場)となった。

教王護国寺の意味


東寺は空海により「教王護国寺」と命名された。
東寺の正式名称だ。
「教王」は密教の経典『教王経』=『金剛頂経』をさす。

教王護国寺には、真言密教の根本道場であり、鎮護国家の修法を行う場という二つの意味が含まれている。

真言密教という宗教

密教は、大乗仏教から枝分かれして誕生した比較的新しい時代に生まれた仏教のなかの1ジャンル。

仏教が始まったインドでは、5、6世紀頃、ヒンドゥー教の勢力が強まってきて、仏教がおされぎみになっていた。

これを盛り返すべく、仏教を現代風にアップデートしたのが密教。

大乗仏教には苦行・禁欲がつきものだが、密教は条件付きで弱めている。

密教の特徴としてはつぎのようなことがある

・当時人気のヒンドゥー教の要素を取り入れている。
・仏像はインドの雰囲気をまとっている。
・密教の仏様、神様をひとまとめに描いた曼荼羅がある。
加持祈祷、護摩などの儀礼がある。

東寺は空海プロデュースのテーマパーク

空海は、東寺全体を目に見える密教の世界として構成することを試みた。

曼荼羅

密教には密教界を表す「曼荼羅」が存在する。
曼荼羅は経典の教えをわかりやすくイラストで表現したもの。

金剛界曼荼羅

胎蔵界曼荼羅

全体の配置

曼荼羅は、まず中心に大日如来が存在し、その周囲を仏たちが囲むのが基本。
東寺の建物はおおかたそのようになっている。

三浦俊良著『東寺の謎』によると、
・ほぼ中心に講堂がある。
・そして中心に大日如来が安置されている。
大日如来は真言密教の主尊。
・南に金堂があり、中心線上に薬師如来が安置されている。
・南東の角に五重塔がある。
五重塔には釈迦の遺骨を納めた仏舎利がある。
・南西の角には潅頂院がある。
潅頂院は儀式が行われる密教寺院にとってもっとも重要な建物。

講堂の仏像立体曼荼羅

空海は、『仁王経』から五菩薩、五明王、五方天を選び、『金剛頂経』から五如来、これに梵天を加えて、立体曼荼羅を見せた。

五菩薩

五明王

五方天

五如来

梵天


講堂には21体の仏像が台上に配置されている。

空海は、東寺を曼荼羅テーマパークにしたてたのだ。

東寺の建築物

行ったらみておきたいポイント

楠木正成が矢を放った「不開門」

鎌倉幕府滅亡後、その後の政権を足利尊氏と後醍醐天皇[新田義貞ら宮方]が争った。

1336年、足利尊氏は東寺に本陣をおいた。
尊氏側と宮軍は東寺付近の市街戦で激しく衝突、尊氏は劣勢にたたされ東大門(とうだいもん)から東寺へ逃げ込んだ。
最後の1人が入った瞬間、門は閉められ、その門をめがけて新田・名和軍は無数の矢を打ち込んだ。

新田義貞は尊氏に一騎打ちを挑んだが、尊氏は開けなかった。
以来この門を「不開門(あけずのもん)」とよぶようになった。

不開門内側から

不開門外から

1605年豊臣秀頼が大修復を行ったとのことで、矢の跡があるのかどうかわからなかった。

ちなみに。
楠木正成は本陣を一条寺下り松におき、現在は碑が建っている。

空海が最後にくぐった門、蓮華門(国宝)


東寺敷地の西側に蓮華門がある。

空海は59歳の時、体調不良をきっかけに東寺を去り高野山に隠棲することを決めた。
いつも持ち歩いていた不動明王は居住していた西院(御影堂)に祀った。

空海が旅立つ日、空海が去る西側の門に不動明王が見送りにきたという。
普段悪をにらみつける恐ろしい形相からはいまにも涙がこぼれ落ちそうだったという。
その足元には蓮の花が咲き、足跡にも蓮の花が咲いていたということから、この門は蓮華門とよばれている。
泣ける。

五重塔の初層に邪鬼


現在5代目の五重塔は創建当時とほぼかわらない建築様式でつくられている。
その職人らによって初層の屋根の軒下に邪鬼の彫刻がはめこまれている。遊びなのか魔除けなのか、役割は不明のようだ。
北西、南西、南東、北東で軒をふんばって支えていてかわいい。

観智院

南北朝時代に建てられた僧侶の合宿所。ここから寺に通った。
創建したのは学僧・杲宝(ごうほう)で、東寺の寺史で国宝の『東宝記(とうほうき)』をまとめた。

客殿には宮本武蔵が描いた「鷹の図」がある。
武蔵が一乗寺下り松での決闘ののち観智院で身を隠した際に描かれたもの。

西寺もあった。なぜないか。

平安京創建の際、東寺と対になる西寺も作られた。
ところが西寺は鎌倉時代の1233年、焼失し再建されることなく滅亡した。

東寺も火災や政情不安定などで幾度か存続の危機にみまわれた。
東寺が再建できて、西寺ができなかった理由はさまざまいわれている。
・そもそも立地が西は湿っていて閑散としていた。
・空海というスターがいなかった。
・時代は鎌倉時代となり、平安京の中心であった羅生門が崩れ大内裏(御所)も焼失するなどで、もはや東西の意味がなくなった。
などがあげられている。
羅城門跡

東寺・空海 vs 西寺・守敏の雨乞い対決伝説

東寺は空海が経営していたのにたいし、西寺は守敏(しゅびん)があたっていた。
守敏は空海と同じ真言宗の僧であったが、弟子筋ではなかった。
2人は日ごろから仲が悪かった。

この2人が雨乞い祈願で対決し空海が勝利して以降、西寺は衰退していったという話がある。

雨乞いは、824年空海が東寺を与えられた翌年に行われた。
夏に干ばつが続き、淳和天皇が空海に神泉苑で祈願するように命じた。
守敏も祈願を願い出て7日間祈願し少しの雨を降らせた。
その後、空海は2日で大雨を降らせることに成功した。

残った東寺側からの逸話といえるのかもしれない。


国宝

五重塔
金堂
両界曼荼羅図 金剛界曼荼羅
両界曼荼羅図 胎蔵界曼荼羅
金剛波羅蜜多菩薩坐像
金剛薩埵菩薩坐像
金剛宝菩薩坐像
金剛法菩薩坐像
金剛業菩薩坐像
梵天坐像
帝釈天坐像
持国天立像
増長天立像
広目天立像
多聞天立像
兜跋毘沙門天立像
不動明王坐像
降三世明王坐像
軍荼利明王坐像
大威徳明王坐像
金剛夜叉明王坐像
弘法大師坐像
秘仏 不動明王坐像
御影堂
蓮華門
金銅密教法具(金剛盤、五鈷杵、五鈷鈴)
ほか全25件。

重要文化財

薬師如来像
日光菩薩立像
月光菩薩立像
大日如来坐像
宝生如来坐像
阿弥陀如来坐像
不空成就如来坐像
阿閦如来坐像
千手観音菩薩立像
地蔵菩薩立像
講堂
十二神将立像
宝蔵
二間観音立像(観音菩薩・梵天・帝釈天)
五大虚空菩薩坐像
観音菩薩立像
ほか全52件

宗派

真言宗[密教]

日本のおもな宗派

密教系 天台宗
真言宗
浄土宗系 浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系 臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

東寺ホームページ

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