【一乗寺下り松】宮本武蔵 吉岡道場最終決戦の地

◎宮本武蔵の有名な決闘の場
◎楠木正成が足利尊氏を倒した戦いの陣。

ゆかりの人物:宮本武蔵。楠木正成。
創建:江戸時代


一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)は、住宅地の一角に小さな公園のようにある。
南北朝時代頃まで一乗寺という大きなお寺があったが現存せず、下がり松は後年植えられたものだが、引き継がれていることにちなんでいる。

宮本武蔵と吉岡一門 一乗寺下り松の決闘


一乗寺下り松は宮本武蔵と吉岡一門との決闘が行われた場所だ。
武蔵といえば巌流島での佐々木小次郎との対決だが、この決闘はそれと同じくらい有名な戦い

江戸時代の剣術家・宮本武蔵は剣の修業のため全国を巡っていた。
武蔵は室町時代に将軍家の兵法指南役を務めた吉岡道場に挑み、門弟を打ち負かした。
以来、吉岡道場と武蔵は複数回対決し、最終決戦となったのが「一乗寺下り松の決闘」だ。

武蔵1人にたいし敵は数十人ともいわれている。
守りを固める吉岡勢にたいし、夜明け前一乗寺の下り松の周辺を見下ろせる山中に潜んでいた武蔵は一気に襲いかかり、倒して逃走した。

逃走先は、東寺の観智院。
そこには武蔵が描いた画が現存している。

一乗寺下り松の松の古木

現在の松は後年植えられたものだが、当時の古木が残っている。
この石碑の近くの八大神社に保存されている。

八大神社は、武蔵が決闘の前に勝利を祈願に参ろうと拝殿に立ったが、侍の道は神に恃むことではないと思いなおし、祈らずに戦いに臨んだというエピソードをもつ。

*別の説として、宮本武蔵と吉岡一門の決闘は「一乗寺」ではなく「一条」だというみかたもある。

南北朝時代「新田義貞・楠木正成 vs 足利尊氏」と一乗寺下り松

楠木正成の陣 一乗寺下り松

南北朝時代は、後醍醐天皇と付き従う新田義貞・楠木正成と、対立する足利尊氏の権力争いの時代だ。

1335年、足利尊氏は都を占領したが、新田・楠木の軍勢が撃退した。
この戦いで、楠木正成が陣を張ったのが一乗寺下り松。

これにより後醍醐天皇は都へ復帰したが、その後足利尊氏の時代となる。

ちなみに。この戦いで尊氏が陣をはったのは東寺。

なぜ一乗寺下り松なのか

南北朝時代、一乗寺下り松は交通の要衝だった。
後醍醐天皇がこもっていた比叡山と京を結ぶ街道はいくつかあり、一乗寺下り松は街道をつなぐ位置にあったのだ。


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