【吉田神社】八百万の神が一同に会している神社

◎日本全国の八百万の神が集まっている。
◎氏神様が春日大社と同じ。
◎斎場所大元宮のデザインが独特。

ゆかりの人物:吉田兼俱
創建:平安時代、戦国時代

吉田神社には日本全国の八百万の神が集まっている

吉田神社(よしだじんじゃ)は京都・吉田山にあり、複数の神社からなる。
中心となる社は斎場所大元宮。
ここに、天照皇大神はじめ八百万の神が祀られている。

このなかに、八百万の神が祭られている。

屋根のつくりが独特。古代の神社の雰囲気がある。

ここにくれば全ての神に祈ることができる

斎場所大元宮には日本全国の八百万の神すべてを集めて祭ってあるので、祈りはここにくればすべて済む、ということになっている。

この教えを発明したのは戦国時代の神官の吉田兼俱(よしだかねとも)。
「宗源唯一神道(吉田神道)」とよばれた。

兼俱は天皇に『日本書紀』の講義を行うなどで室町幕府第8代将軍足利義政・日野富子の信頼をえていた。
その影響を背景に、これまで朝廷が行っていた全国の神社の位、神号などを吉田家を通してだすことを決め、1473年、斎場所大元宮を造った。

これにより、全国の神社と神宮への支配を強め吉田家の勢力も拡大した。
これは明治維新まで続いたが、明治維新以降、国家神道が本流になると力を失い、斎場所大元宮は末社に格下げされた。

摂社と末社
特定の有名な社の支配が確立してくると、本殿の主祭神だけでなく、神を細分化し増殖することで勢力を拡大するようになる。

吉田神社には多様な祭神を祀る摂社、末社がいくつもあり、一大複合神社郡が形成されている。
細分化した周囲の社殿を「摂社(せっしゃ)」という。
また、さらに扱いの軽い社殿を「末社(まっしゃ)」という。

斎場所大元宮は主であったのに、明治維新以降「末」になってしまったのだ。

春日大社との共通点

吉田神社は、吉田兼俱が吉田神道を編み出す以前の平安時代(859年)に藤原山陰によって、創建された。

藤原氏の氏神は春日大社であったこともあり、御祭神を春日大社から吉田神社に分祀した。
その御祭神は四体で本宮に祀られている。

建御賀豆智命(たけみかづちのみこと):第一殿
伊波比主命(いわいぬしのみこと):第二殿
天之子八根命(あまのこやねのみこと):第三殿
比売神(ひめのかみ):第四殿

おもな社、摂社、末社

摂社 神楽岡神社


吉田山は古来より「神楽山」とよばれていて、神社神楽岡神社は平安時代の法典『延喜式』に雷神として朝廷によって重んぜられていた旨が記されている。

平安京遷都以前から霊地であったと考えられる。
吉田神社の元祖ともいえる。

摂社 若宮社


室町時代の神官・吉田兼煕が建立した。

末社 神龍社


吉田兼倶が神龍大明神として祀られている。

末社 山蔭神社


御祭神:藤原山蔭
包丁の神・料理飲食の祖神。
全国料理関係者の協賛で、1959年に建立された。

末社 菓祖神社


お菓子の祖神。
京都菓子業界により、1957年に建立された。

末社 今宮社


吉田町の産土神(土地の守護神)。
1816年に造営された。

「紅もゆる」の碑

吉田山山頂に「紅もゆる丘の花」と刻まれた歌碑がある。

「紅もゆる丘の花」は京都大学の前身・旧制第等学校の寮歌『逍遥の歌』の歌詞。
「紅萌ゆる丘の花・・・月こそかかれ吉田山」と歌われている。

「紅もゆる百年」を記念して、三高同窓会が1957(昭和32年)に建立したもの。
吉田神社と京大は隣接しているので、思い入れが深いのだろう。
向かう道は「紅もゆる歌碑道」となづけられている。


重要文化財

大元宮

御祭神

第一殿  健御賀豆知命
第二殿  伊波比主命
第三殿  天之子八根命
第四殿  比売神

吉田神社ホームページ

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