【豊国神社】豊臣秀吉が神として祀られている。明治天皇が再建した。

◎豊臣秀吉が神として祀られている。
◎現在の「豊国神社」は明治時代に建てられた。
◎「豊国」は「豊葦原中津国」の略。
◎宝物館で秀吉の歯をみることができる。

ゆかりの人物:豊臣秀吉
創建:安土桃山時代(豊国社)、明治時代(豊国神社)

豊国神社の前身は豊国社

豊国神社(とよくにじんじゃ)は豊臣秀吉を神として祀る神社だ。
ただ、建造されたのは、死後ずいぶんと後の明治時代。

死後すぐに建てられた神社は「豊国社(とよくにのやしろ)」で、現在はなくなっているが豊国神社の前身だ。

豊国社には秀吉が豊国大明神として祀られていた

豊国社は阿弥陀ヶ峰の山腹に建てられた

「豊国社」は、豊臣秀吉の死後造られた。
秀吉は遺言で自らを神として祀られることを願い、その意をくみ秀吉を「豊国大明神」として祀った。

秀吉の遺体は阿弥陀ヶ峰に埋葬され(豊国廟)、豊国社はその山腹に建造された。
壮麗で雄大な社殿が立ち並んでいたそうだ。

豊国大明神とは


豊国大明神は後陽成天皇が与た神号。
「豊国」は「豊葦原中津国」の略で、日本神話のなかで現実の地上の世界をさし、日本国の別名。
豊国大明神は、日本国の神、といった意味。

豊国社、徳川家に破壊される

秀吉が亡くなり息子の秀頼も大阪の陣で敗れると、豊臣を守れなかった豊国社と豊国大明神の信用は失墜した。

徳川政権は豊国大明神の神号をはく奪し、豊国社は破壊され跡形もなくなってしまった。

明治政府、豊国神社を建造する

明治元(1868)年、明治政府は豊国社の再建を決めた。
これが豊国神社

明治政府が豊国神社を再興したわけ

明治の大日本帝国憲法では、主権者は天皇とされた。
天皇は現人神で、豊国神社が祀っていた豊国大明神は「日本国の神」という点で、都合の良いシンボルとして利用したことが考えられる。

豊国神社は方広寺跡に建てられている

現在豊国神社がある場所は、秀吉の時代に方広寺があったエリア。

方広寺は、現在はこじんまりした寺だが、創建当初は広大だった。
現在の三十三間堂、京都国立博物館あたりまで及んでおり、大仏殿も存在していた。

この大仏殿跡地に豊国神社が建設された。
豊国神社は、方広寺大仏殿の石垣で囲まれている。

豊国神社 宝物館 秀吉の歯がある

神社敷地内に宝物館がある。
豊国祭礼図屏風絵や秀吉の歯! 甲冑などが展示されている。

鉄燈籠 辻与二郎作【重要文化財】

秀吉から「天下一」の称号を与えられた。

豊国祭礼図屏風

豊太閤御歯

千利休書状 宗唄宛

秀吉エリア

豊国神社周辺には、秀吉ゆかりの歴史的遺構が集中している。

豊国廟


秀吉の墓。
阿弥陀ヶ峰に建てられている。

豊国廟―豊国神社―西本願寺は秀吉の死からの再生を意図してつくられたとも考えられている。

方広寺

方広寺は秀吉が建造した広大な寺で、大仏・大仏殿も建築されていた。
現在は寺院もこじんまりとしており、大仏・大仏殿は跡形もない。
大仏殿跡の城壁だけが残る。

大坂冬の陣のきっかけとなったとされる「国家安康・君臣豊楽」の文字が書かれた鐘が現存する。

耳塚


秀吉が朝鮮出兵した際の朝鮮の犠牲者の遺跡。

智積院

智積院は徳川家康が建てた寺院だが、もとは、秀吉の長男の菩提寺である祥雲寺が建っていた。

なぜこのあたりに秀吉に関係する建物が多いのか


この周辺は、平安時代、後白河上皇の御所・法住寺殿があった。
そして、その仏堂として平清盛によって建てられたのが三十三間堂だ。
もともと平氏一族の居住地であり、鎌倉時代には六波羅探題がおかれた地も周辺にある。

秀吉は清盛、源頼朝を理想としており、この地にあやかったとも考えられる。


国宝

唐門

重要文化財

鉄燈籠「天下一」 辻与二郎作

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