【等持院】The足利家 の寺

◎足利家の菩提寺
◎足利尊氏の墓がある
◎足利15代歴代将軍の木像が安置されている
◎夢窓疎石三大庭園の一つとされる庭園がある

ゆかりの人物:足利尊氏(創建)、夢窓疎石(開山)
創建:室町時代

足利尊氏、等持院を建造する


足利尊氏は、打倒鎌倉幕府で旗印とした後醍醐天皇に反旗をひるがえし1336年、室町幕府を開いた武将。

その後、後醍醐天皇の南朝と尊氏が擁立した北朝が争う南北朝時代となる。
南北朝にわかれた3年後に後醍醐天皇は病死した。
尊氏はその死を弔うために天龍寺を創建した。

そして一方、足利氏としての立場で戦没者の冥福を祈るために1339年、等持院を創建した。
等持院創建の僧は夢窓疎石。
夢窓疎石は後醍醐天皇をパトロンとしていた僧で尊氏に天龍寺の創建を勧めたともいわれている。
作庭家としても有名。

建てられた衣笠の地は平安貴族の行楽の地であった。

足利尊氏の墓

足利尊氏は死去後等持院に葬られた。

台座の側面に蓮の花びらがあしらわれているのは室町時代の特徴。

台座には足利尊氏が亡くなった「延文三年四月」と刻まれている。

その後歴代将軍の葬儀は等持院で行われるようになった。

3代将軍義満は北山に金閣寺を建造したが、等持院が近いというのが理由の一つともいわれる。

足利歴代将軍の像

霊光殿には足利歴代の将軍像(5代義量と14代義栄の像を除く)が安置されている。

初代・尊氏から、第2代・義詮、第3代・義満、第4代・義持、第6代・義教、第7代・義勝、第8代・義政、第9代・義尚、第10代・義材、第11代・義澄、第12代・義晴、第13代・義輝、第15代・義昭まで。
それぞれ、本当にこのような顔立ち体格だったのかと思いを馳せるほど、特徴をもたせて作られている。
「尊氏、なかなかいい男では? 義満、えげつなさそう。金閣寺行ってきましたよ。義持、お父さん嫌いだったのね。義政、応仁の乱やっちゃった。銀閣寺建てたでしょ。義昭、信長怖かった?」など話しかけてしまう。

足利義昭像

等持院の建造物

建造当初は大規模な寺院であったが、応仁の乱やその後の火災で大半が失われた。
8代将軍・足利義政が尊氏没後100年祭を催しその時に、仏殿ほかかなりの建造物が復興した。

しかし、また火災が起こり豊臣秀頼が再建したがさらに火災、しかしまた火災。
そして復興。
この時に竣工したのが現在の方丈で、現存する建物のなかで最古のもの。
福島正則が造営した、妙心寺塔頭海福院から移築されたもの。

芙蓉池からの方丈

等持院の庭園

等持院の庭園は、アミューズメントパーク的だ。
極楽浄土や神仙世界の庭とは別の明るさがある。

作庭は夢窓疎石と伝わるが、現在の庭は江戸時代に整備されたもの。
夢窓疎石は天龍寺庭園も作っているがまったく違ったデザインで発想の豊かさを感じる。

二つの池を中心に構成されている。
一つは芙蓉池(ふようち)、一つは心字池(しんじいけ)。
二つの池を周回できるように小径が設けられていて、広々とした芙蓉池から木々に囲まれた細い道をたどる心字池と変化に富んだ散策ができて楽しい。

芙蓉池を中心とするエリア


傾斜を活かして池、花木、茶室が立体的にそして広々と明るく迫ってくる。
ぽこぽことしたさつきが生き生きと映える。

清漣亭(せいれんてい)

斜面の頂上のアイポイントに茶室が建てられている。
江戸時代には存在していたが、現在のものは2019(令和元)年に改修された。
ちょっとした坂を上がっていけるようになっていて、なかをみることができる。

上段一畳は貴人床

司馬温公形手水鉢(しばおんこうがたちょうずばち)

司馬温公は、中国・宗の時代の学者。
神童で、子どもの頃友人が水がめに落ちたところを、司馬温公が水がめを割って救ったという伝説があり、割れたかのように歪んだ形の手水鉢を司馬温公型手水鉢とよぶ。

等持院灯篭

竿が四角形、中台が六角形、火袋に日月文様がくりぬかれているのが特徴

心字池を中心とするエリア


心字池は草書体の「心」の字をかたどって作られた池。
途中、足利15代供養塔がある。

足利15代供養塔


重要文化財

等持寺絵図。等持院より以前に京都中心部に等持寺を建てた。その時の敷地図

宗派

臨済宗

日本のおもな宗派

密教系 天台宗
真言宗
浄土宗系 浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系 臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

等持院ホームページ

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