【天龍寺】後醍醐天皇と足利尊氏の争いに思いをはせる

◎足利尊氏が後醍醐天皇を弔った寺
◎夢窓疎石が大きくかかわった。
◎夢窓疎石が作庭した曹源池庭園がある。
◎加山又造が描いた雲龍図がある

ゆかりの人物:足利尊氏(創建)、後醍醐天皇(弔われている)、夢窓疎石(創建)
創建:室町時代

天龍寺は後醍醐天皇足利尊氏の敵同士を夢窓疎石が融和させた寺

鎌倉時代末期、日本史上最大の武家 vs 天皇の権力争いが勃発した。
衰退する鎌倉幕府を倒し、天皇の世にもどそうと画策したのが後醍醐天皇だ。
後醍醐天皇の画策をつぶすべく、鎌倉幕府から命令をうけたのが足利尊氏
鎌倉幕府、後醍醐天皇尊氏らがもつれあって争ったが、最終的に尊氏が勝利し室町幕府を開いた。

1336年に室町幕府が成立した3年後に後醍醐天皇は亡くなった。

夢窓疎石は「たとえ怨みのある敵だったとはいえ、本来嫌うべき敵などいないのだ」と後醍醐天皇鎮護の寺を建てるように尊氏に直言し、尊氏もこれを受け入れ天龍寺が建立されるにいたった。

これは3人の関係あってこそ実現したといえる。

後醍醐天皇と足利尊氏の関係

後醍醐天皇足利尊氏の関係はややこしい。

最初は敵、次に味方になり、再び敵となった。

後醍醐天皇足利尊氏の関係

夢窓疎石後醍醐天皇足利尊氏の関係

夢窓疎石は鎌倉五山第一位の建長寺の首位の位をもつ高僧だった。

後醍醐天皇が鎌倉幕府から政権を天皇に取り戻した時、後醍醐天皇夢窓疎石に南禅寺の住職になるようにと、使いをだした。
南禅寺は後醍醐天皇の祖父・亀山天皇が創建した寺で、自分が京都五山第一に指定した寺。

この時期、足利尊氏後醍醐天皇の味方で、夢窓疎石にだされた使いが、足利尊氏だった。

夢窓疎石後醍醐天皇の依頼を受け、後醍醐天皇夢窓疎石の支援者となった。

そういう関係で、夢窓疎石後醍醐天皇足利尊氏双方から深く信仰されていた。

天龍寺がここに建てられたのは

現在天龍寺がある場所は、後醍醐天皇の曽祖父・後嵯峨上皇が別邸を設けたところで、後醍醐天皇は幼少期ここですごしたことがあるためともいわれる。
現在、曽祖父・後嵯峨天皇と、祖父・亀山天皇の陵が天龍寺内にある。

天龍寺は幕末、長州藩の陣地となった

明治維新の時代、蛤御門の変の際に長州藩は天龍寺に陣地を置いた。
御所を守るのが会津藩・薩摩藩など。これと戦ったのが長州藩。
長州藩が戦いに敗れ、追ってきた薩摩軍が天龍寺を砲撃し、天龍寺はほぼ焼失した。

また、明治政府の廃仏毀釈で領地と敷地の大部分が失われ、現在あるのはもとの1割程度だけ。

創建予算は天龍寺船の交易の利益から

天龍寺建立の頃、都は戦争で荒廃していた。
夢窓疎石は疲弊していた朝廷や人々からの寄付を集める方法をとらなかった。

資金は中国・元との貿易によって調達した。

夢窓疎石は禅宗の僧、龍安寺も禅寺(臨済宗)であるが、日本での禅宗は中国・元の僧から取り入れていた。
禅宗は武家政権から支持されたため、多くの高僧が元から来日し、船の往来も多かった。

夢窓疎石は、貿易船の派遣を幕府が許可し、一定額を幕府に収めさせるシステムをつくった。
これが天龍寺船(てんりゅうじぶね)。

天龍寺船による利益は天龍寺建立の資金となりまた、一部は幕府へ納入された。

曹源池庭園(そうげんちていえん)のみどころ

夢窓疎石は高僧であるが、庭師としても名高い。
疎石が作庭したのが曹源池庭園。
これは当時からほとんど変わっていない。

曹源池を中心として背景には亀山が見え広々としており、池の岸には大きな石組が配されて力強い動きが感じられる。

龍門瀑と鯉魚石

池の向こうに龍門瀑が組まれている。

龍門瀑は、「登龍門」の由来となった古代中国の故事で「鯉が龍門の滝を登って龍に成った」という「鯉の滝登り」逸話の場面を再現するもの。
ひたすら修行を繰り返す禅の理念を示している。
流れ落ちる滝と、滝を登ろうとする鯉の石組、鯉魚石が通常セットで組み込まれている。

天龍寺の龍門瀑の特徴は、鯉がいまにも龍に変わろうとしているところが表現されているのだそうだが、池の向こうまでの距離が遠く、肉眼ではよく見えない。

加山又造が描いた雲龍図

法堂の天井に、雲龍図が描かれている。1997年に作成。
龍の指が5本あるのが特徴。
「5」の数は天皇の許可がないと使用できない権威ある数のため、古い時代に書かれたものはだいたい3本のようだ。
基本、土曜日・日曜日・祝日、特別参拝の期間は毎日公開されている。


重要文化財

釈迦如来坐像
毘沙門天像
観世音菩薩像
夢窓国師像
など

宗派

臨済宗

日本のおもな宗派

密教系 天台宗
真言宗
浄土宗系 浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系 臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

天龍寺ホームページ

関連記事