◎天智天皇の墓(天智天皇は飛鳥時代の第38代天皇。乙巳の変でおなじみの中大兄王子)。
◎記念の日時計がある(天智天皇は日本初の水時計を作ったといわれていることから)。
ゆかりの人物:天智天皇
造営:7世紀末~
天智天皇の墓・山科陵は京都最古の天皇陵
天智天皇(てんじてんのう)のお墓・山科陵は、京都の天皇陵の中でも最古のものとされ、被葬者が断定できる希少な陵。
『延喜式』は平安時代に編纂された法典で、ここに山科陵として記載されている。
『延喜式』巻二十一諸陵寮に「山科の陵 近江大津宮御字天智天皇・・・」とある。
延喜式 巻二十一の一部。資料・e国宝ウェブサイトより
天智天皇陵はなぜ京都・山科にあるのか
飛鳥時代の天皇陵は奈良か大阪にある。
ところが、天智天皇陵は京都の山科にある。
それはなぜなのか。
①天智天皇時代の都・近江大津宮が近い
飛鳥時代、都はほぼ飛鳥だが、天智天皇の時代は遷都があり、近江大津宮が都となった。
近江大津宮と山科はわりと近い。山を挟んだ反対側だ。
②なじみがある
乙巳の変でともに戦った、右腕の中臣鎌足は山科に住んでいた。
天智天皇と弟の大海人皇子と鎌足で、山科に薬用の獣・草を採取しにいった記録がある。
③大海人皇子封じ
天智天皇は671年に亡くなった。
跡継ぎとしてあがっていたのは、息子の大友皇子と弟の大海人皇子。
後を継いだのは大友皇子(後の弘文天皇)。
大海人皇子は辞退し、吉野へ引いた。
吉野へ引いたものの、大友皇子側は油断はできない。
いつ、大海人皇子が近江大津宮に攻め込み政権を奪取しにくるか。
吉野からの動きを見張り、プレッシャーをかけるのに適した場所が山科だった。
山科陵造営を理由に人や兵士を集め、武器を持たせた。
また、弘文天皇の都・近江大津宮から飛鳥に至るところに見張りをおいて大海人皇子側の出入りを監視・制限した。
(参考資料:森公章『天智天皇』吉川弘文館)
壬申の乱勃発
この圧力がきっかけの一つとなり、672年大海人皇子は大友皇子(弘文天皇)にたいし挙兵した。
これが壬申の乱。
壬申の乱で、勝利したのは大海人皇子で第40代天武天皇となった。
大友皇子(弘文天皇)は自害。
天武天皇は都を飛鳥に遷都した。
天智天皇と時計
日本初の水時計
天智天皇は、日本初の時計である水時計〔漏刻(ろうこく)〕を造った。
天皇になる前の660年、飛鳥で造り、即位し近江大津宮に遷都するとそこに移された(671年)。
漏刻復元模型(飛鳥資料館)
目盛りの棒は浮きになっていて、水量によって時間がわかる。4段になっているのは、水圧の変化を吸収にするため。
天智天皇の時代、遣唐使によって水臬(みずばかり。水平を計る水準器)がもたらされ、天智天皇自身も水碓(水力で動かす碓)を造って鉄の加工を行うなど水を利用した科学技術に力を注いだ。
天智天皇陵の日時計
天智天皇陵の入り口に日時計がある。
これは、日本初の時計を造った天智天皇にちなみ、1938年(昭和13年)に「京都時計商組合」が20周年を記念して建立したもの。
碑には「天恩無窮」と刻まれている。
「天恩」は天からの恩恵。「無窮」は無限、永遠という意味。
6月10日 時の記念日
近江大津宮で水時計が時を告げたのは671年4月25日。太陽暦に置き換えると6月10日で、現在この日は「時の記念日」となっている。