【聖護院門跡】山伏の総本山 天皇家とゆかりのふかい門跡寺院

◎山伏(修験道)の総本山
◎皇室とゆかりが深い、門跡寺院
◎数度の火災を免れてきた不動明王像が安置されている。

ゆかりの人物:白河上皇、僧誉大僧正
創建:平安時代

聖護院の聖護は「聖体護持」からとられたもの

聖護院の由来

「聖体護持」は天皇を守るという意味。
平安時代、白河上皇が熊野三山(くまのさんざん)詣を行った。
熊野詣は仏教を深く信仰した上皇や貴族が行った。行程が厳しくこれを耐えることで熊野の神々からのご利益がえられると信じられていた。

この行程を、山伏である増誉(ぞうよ)大僧正が案内をつとめた。
その功績により1090年、増誉に寺院が与えられ「聖体護持」から2文字をとって聖護院(しょうごいん)と名づけられた。
これが聖護院のはじまり。

そして増誉は「熊野三山検校職」に任命され、全国の修験者を統括した。
以来、聖護院は修験宗の総本山となっている。

白河上皇と武士


1090年頃は、藤原氏の勢力がおとろえ、武士が力をつけ始めた時代。
白河天皇は子に天皇の位を譲り、自らは上皇として実権をにぎる「院政」を行った。
上皇は自分の警護をするために武士を集め、これを「北面の武士」という。

山伏、修験道とは

山に神が宿ると信じる山岳信仰と仏教があわさった日本独自の宗教が修験道。
山にこもって修行する人を山伏、修験者という。

山伏は村内での個人や家にたして、葬儀後の儀式やお守りの配布など身近な宗教活動を行っていて、こういった勢力を把握することは権力者にとって必要なことだった。

門跡寺院

門跡寺院は皇室や公家が出家して住職を務めた寺院。
聖護院では明治維新までに37代のうち、25代の門主が皇室から入寺されている。
江戸時代、御所が火災で焼失した際には光格天皇、孝明天皇が一時的に住まわれ「仮皇居」となった。

聖護院の建造物・仏像

宸殿 上段之間


対面所。

不動明王 本尊

画像は聖護院パンフレット

聖護院は創建以来いくつもの火災に見舞われたが、都度焼失をまぬがれ現在に至っている。重要文化財。
向かって左には不動明王の怒りを表すセイタカ童子、右に慈悲を表すコンガラ童子が控えている。
セイタカのぶーたれた表情がおもしろい。

上記とも特別拝観時に拝観可能。

聖護院にまつわる食べ物

聖護院大根


聖護院に住む農家が江戸時代後期に尾張の国から長大根を譲り受け、毎年栽培しているうちに、短い丸形の大根が生まれたといわれている。

資料:東北農政局HP

聖護院八ツ橋


元禄2年(1689年)金戒光明寺の黒谷参道の聖護院の森の茶屋にて販売開始。


それが現在の総本店。


重要文化財

本尊 不動明王像
智証大師円珍像
書院
「神変大菩薩」諡号勅書

宗派

修験道

聖護院門跡ホームページ

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