【下鴨神社】賀茂じゃなくて鴨のほう

◎下カモ神社と上カモ神社は二つで一つ。南にある方。
◎式年遷宮がある。
◎紀元前からの歴史がある。
◎参道は縄文時代から生き続ける森「糺(ただす)の森」。
◎八咫烏(ヤタガラス)神話と密接なかかわり。
◎30弱のミニ神社が集まっている。
◎鴨長明が禰宜になりそこねた。
◎葵祭で祭典が行われる。

時代:紀元前90年より以前にお祀りされていた記録あり

下鴨神社と上賀茂神社 なぜ下「鴨」で上「賀茂」なのか。

この疑問についてのバッチリとした回答はない。

もともと「カモ」氏の居住する地帯が「カモ」であった。
それが鴨となったり賀茂となったりしただけらしい。
平安時代には朝廷は行事を両社同日に行っていた、つまり両社はひとつの社として扱われていたという。

平安時代に編纂された『新撰姓氏録』でもすでに両氏が掲載されている。

画像:国立公文書館デジタルアーカイブ

下鴨神社(しもがもじんじゃ)の御祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の 〃 賀茂別雷大神(かものわけいかずらのかみ)

ここでは下鴨も「賀茂」だ。
この2人には関係がある。
賀茂建角身命の孫が賀茂別雷大神なのだ。
賀茂建角身命の娘は下鴨神社のもう1人の御祭神・玉依媛命。

下鴨神社の御祭神は賀茂建角身命(西殿)と玉依媛命(東殿)

賀茂建角身命は八咫烏として有名

八咫烏(やたがらす)はサッカー日本代表のエンブレムで有名だが、この八咫烏は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)のことだといわれている。

サッカー日本代表のエンブレム

facebook キリンサッカー応援より

これは『古事記』『新撰姓氏録』などに記されている。

『古事記』で八咫烏が登場する。

『古事記』
初代天皇の神武は、まだ即位していない時、日向(宮崎)にいた。
神武は東に向かい、大和国(奈良)に至ってそこに都を開き神武天皇となる。
この途中の熊野の山中で神武天皇は大難敵に遭遇した。
もうだめか、というその時、天照大神の使いとして八咫烏が派遣され、神武天皇を安全に誘導し、無事大和に到着することができた。

『新撰姓氏録』で賀茂建角身命と八咫烏が結びつく。

『新撰姓氏録』
鴨建角身命(ここでは”鴨”!)が大きな鳥に変身して神武天皇の道案内をした。

この大きな鳥が八咫烏だと解釈され、賀茂建角身命が八咫烏だと伝承されている。

賀茂一族は山背国に移住した。

下鴨神社内のミニ神社の任部社(とうべしゃ)は八咫烏命(やたがらすのみこと)を祀っている。

八咫烏とサッカー日本代表

八咫烏はサッカー日本代表のエンブレムにあしわれていて、日本サッカーのシンボルマークとなっている。

なぜ八咫烏とサッカーが関係するのか。

それは、日本サッカーの普及に尽力した明治の指導者・中村覚之助さんの出身地が和歌山県で、和歌山県で信仰されている八咫烏神話にあやかったものだ。

和歌山県は神武天皇がピンチにおちいった熊野地方。
熊野三山に八咫烏が祀られている。
・熊野那智大社
・熊野本宮大社
・熊野速玉大社

現在も必勝祈願に日本サッカー協会の関係者が訪れる。

玉依媛命の「丹塗りの矢」で妊娠神話

玉依媛命(たまよりひめのみこと)は賀茂建角身命の娘で、男の子を産んだ。

媛が糺の森の瀬見の小川で遊んでいた時、流れてきた「丹塗りの矢」を拾って一晩明けると妊娠したという。
「丹塗りの矢」は実は京都・乙訓郡の祭神の「火雷神(ほのいかずらのかみ)」だったことが判明。
男の子は祖父の名を合わせて「賀茂別雷神(かものわけいかずらのかみ)」と名づけられた。

「賀茂別雷神」は上賀茂神社の御祭神。

祖父・母が下鴨、息子が上賀茂

下鴨神社は通称で、正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」。
御祖だからご先祖で、祖父・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と・玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られている。
上賀茂神社も通称で、正式には「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」。
息子・雷神〔賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)〕が祀られている。
二つはファミリー神社。
と考えておくと、鴨だ賀茂だとこんがらからずに、区別がつきやすくなる。

そもそもは二つまとめて賀茂社とよばれていた。

伊勢神宮につぐ朝廷と深いつながり

賀茂社(下鴨神社と上賀茂神社)は皇室との関係が深かった。
平安時代の嵯峨天皇の時から鎌倉時代の後鳥羽天皇の時まで天皇は皇女を神に仕える斎王として賀茂社に出した。
これは神にたいして最愛の娘を捧げるという意味がある。
朝廷と神社がこういった関係を結ぶのは皇女を斎宮として出した伊勢神宮と賀茂社だけだ。

斎王は葵祭においては勅使の行列に加わった。

現在では、選出された市民が斎王代として儀を行う。

下鴨神社、上賀茂神社とも伊勢神宮と同様、式年遷宮が行われる。

ミニ神社はそれぞれのご利益がある

西の本宮、東の本宮のほかに、そう広くない敷地に小さな御社がたくさん建っている。
それぞれご利益があるので、いくつも祈願できる。
・縁結び、安産・子育ての神
・印鑑・契約守護神
・干支の神
・農耕の神
・水の神
・開運・厄除けの神
・文芸の神
・勇気と力を与えてくれる神
・商売繁盛の神
・台所の神
・病気平癒の神
・家族の平安の神
・心身を清浄してくれる神
など。

下鴨神社の境内MAPへのリンク

みたらし団子の元祖

境内にみたらし池がある。
この池に湧き出る水あわをかたどったものが「みたらし団子」。
1番上と2番目の間が少し開いていて、上が頭、下が体を表している。

加茂みたらし茶屋Instagramより

鴨長明はやはり鴨と関係がある。

鴨長明は『方丈記』の作者として有名。

方丈記

大福光寺本(鎌倉前期写、伝 鴨長明自筆)

長明の父親は下鴨神社の一角にある河合神社の禰宜(神職)だった。
長明は父の跡を継ぐことを希望していたが、横やりが入り叶わなかった。
長明はあきらめて放浪人生を送ることになる。
終盤、山科の麓に組み立てて運べる草庵を建て、そこで『方丈記』を書いた。

現在は河合神社敷地内に「方丈の庵」を復元したものが展示されている。

葵祭(あおいまつり)〔勅祭 賀茂祭(かもさい)〕

葵祭は毎年5月15日に行われる賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社)の祭。
賀茂社は古くから皇室との関係が深かったことがあり、もとは皇室の年中行事を祭としたもので、「勅祭 賀茂祭」という。

当日、神前に葵をお供えし、全ての社殿、関係者が葵を身に着けることから葵祭とよばれている。

葵祭のはじまり
始まりは古墳時代・欽明天皇の時までさかのぼる。
国が嵐がおき天候不順で作物が実らず人々が困っていた。
朝廷が占わせたところ、賀茂大神の祟りであることがわかった。
そこで、馬に鈴をつけ人は猪の頭をつけて馬を乗り回して祭祀を行ったところ、五穀豊穣、天下泰平となった。
この祭りは広く浸透し、平安時代には『源氏物語』『枕草子』にも登場する。

斎王
天皇が賀茂社に神に仕えさせるため賀茂社にだした皇女・斎王が、葵祭の際、勅使の行列に加わった。

現在では、選出された市民が斎王代として儀を行う。

御所からスタート
葵祭の行列は京都御所がスタート。
下鴨神社に入って祭典を行い、上賀茂神社へ入って祭典を行う。

葵祭、斎王代禊(みそぎ)の儀

葵祭の行列は京都御所をスタートして、下鴨神社に入って祭典を行い、上賀茂神社へ入り祭典を行い、御所に戻る。


国宝

西御本宮
東御本宮

重要文化財

霊璽社
叉蔵
御料屋
幣殿
言社
中門
三井神社
大炊殿
供御所
出雲井於神社
神服殿
舞殿
橋殿
細殿
楼門

御祭神

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 西殿
玉依媛命(たまよりひめのみこと) 東殿

下鴨神社ホームページ

関連記事