◎陰陽師・安倍晴明が祀られている。
◎平安京があった場所の近くにある。
ゆかりの人物:安倍晴明
創建:平安時代
安倍晴明とは 陰陽師とは
安倍晴明とは
安倍晴明(あべのせいめい)は平安時代の実在の人物で、「陰陽道(おんみょうどう)」によって宮廷政治家や貴族にアドバイスをする「陰陽師(おんみょうじ)」を職業としていた学者であり官僚。
陰陽道とは
陰陽道は古代中国から始まった思想と技術で、当時の最先端の学問。
自然界を「陰」「陽」の二気と「木火土金水」の五行の変化の組みあわせでこの世の現象を説明できるという考え方から「陰陽道」という。
占い、暦の作成、天体・気象の観測、時刻の計測、呪術などを行った。
平安時代は、疫病が流行したり有力貴族が病気で亡くなると、政治の陰謀などの犠牲となった死者の怨霊がたたったのだと考えられていた。
そのため、怨霊を恐れる宮廷政治家や貴族は政策の立案から実行まで陰陽師の術に頼っていた。
つまり陰陽道は政治でもあった。
安倍晴明と一条戻橋
一条戻橋の伝説
晴明神社は、安倍晴明の住まいがあった場所にある。
この場所は、占いを行うにはもってこいの環境にある。
それは、一条戻橋のすぐ近くだということだ。
一条戻橋は、堀川と一条大路が交差するところにかかっている。
地図は中古京師内外地圖 皇列緒餘撰部内容年代 901-1600。画像提供・日本文化研究センター
堀川
戻り橋
現在の一条戻橋。1995年に架け替えられたもの。
一条大路は平安京の最北端で、一条戻橋は京と”京ではない場所”の境にある橋だ。
この境という特別感が「戻橋は死者が戻ってくる橋」という伝説を生む。
その伝説は、鎌倉時代の仏法説話集『撰集抄(せんじゅうしょう)』に書かれている。
『撰集抄(せんじゅうしょう)』
平安時代、ある官吏が亡くなった。見送る人々が橋の周辺に集まっていた時、父親の死に目に会えなかった息子が駆け付け嘆き悲しんだ。
その時、雷光が走り棺のふたがあき、死者が起き上がり息子とがっちり抱き合った。
つまり、死者が戻ってきたということで、この橋を「戻橋」とよぶようになった。
一条戻橋の橋占い
安倍晴明は一条戻橋の下に式神を飼っていて、式神は橋を渡る人を占っていたという。
式神は陰陽師が使う精霊といわれている。
右中央が安倍晴明、その下に控えるのが式神。左上はもののけ。『不動利益縁起絵巻』(部分)
一条戻橋は処刑場までの引き回しのルートに
後に、一条戻橋は処刑場までの引き回しのルートになり、罪人の首をさらす場所にもなった。
千利休は豊臣秀吉に切腹させられたが、その首も一条戻橋にさらされた。
内裏の鬼門
晴明神社は平安京の内裏(御所)の北東の位置にあり鬼門となっていて、邪鬼の侵入を防ぐ重要なポイントとなっていた。
地図は中古京師内外地圖 皇列緒餘撰部内容年代 901-1600。画像提供・日本文化研究センター
晴明神社の五芒星 その意味は?
晴明神社の一の鳥居には「☆」の額がかかげられている。
これは「晴明桔梗(ききょう)」とよばれる社紋。
五芒星(ごぼうせい)とよばれる図形が用いられている。
これは、陰陽道で使われるデザインで安倍晴明が自分の紋として使っていた。
「木火土金水」の五行を結んだ図と考えられている。
「木火土金水」五行の理(ことわり)
木は燃えて火を生じ
火は燃えた後土を生じ
土の中から金属を生じ
金属の表面に水を生じ
水は木を育て生ず
木は土の力を奪い
土は火を吸い取り
水は火を消し
火は金属を溶かし
金属は木を倒す
晴明神社みどころ ここを見逃すな
旧・一條橋
現在堀川通に架かっているのは1995年に替えられたもの。
旧欄干の親柱を再利用して昔の「一條戻橋」が再現されている。
式神石像
旧・一條橋の脇に、式神の石像が置かれている。
晴明井
晴明が念力により湧出させたとされる。
周りに干支で方位が刻まれている。
水の出口はその年の恵方を向いていて、毎年立春の日に向きを変える。
本殿
日月柱
篤志家に奉納されたもの。
北に「月」、南に「日」で陰陽を表している。
石柱は、かつて四神門の門柱として使われていたもので、「明治37年9月晴明公九百年祭紀念」と刻まれている。
千利休の屋敷跡が境内にある。
豊臣秀吉が晴明神社の南方に聚楽第を建てたとき、ここは千利休の屋敷だった。
千利休はこのあたりで自害したといわれている。
御祭神
安倍晴明御霊神