◎山縣有朋の別荘
◎明治時代の和・モダンの庭
◎「無鄰菴会議」(日露戦争直前の)が行われた場所。
ゆかりの人物:山縣有朋
創建:明治時代
庭|池でなく川、苔でなく芝生、鶴島・亀島なし
無鄰菴(むりんあん)は第3代と9代の内閣総理大臣を務めた山縣有朋が別荘として作った(1941年京都市に譲渡された)。
山縣は造園が趣味で、個人の趣向が存分にこらされている。
いわゆる日本庭園の概念にとらわれない和・モダンの庭。庭師の小川治兵衛(おがわじへい)に発注し、一からデザインした。
水の流れを楽しむ
池があり池泉回遊式庭園ではあるが、池というよりも流れる水が景観の中心となっている。
滝組石は三段
豊富な水は琵琶湖疎水から引いていて、三段に組まれている。
公共の水を私邸に引水したというわけだ。
小石と大石で流れをつくる
無鄰菴庭園は平らで見通しがよい。
つまり高低差があまりなく、水の流れに変化をつけるため、小石が敷き詰められ大ぶりな石が流れの中に配置されている。
大石もある
古来の定型ではなく、自然な風景に
古来庭には、不老長寿を願ったり極楽浄土を表したりなど仏教的な思想が反映されていた。
山縣はそういった定型からの発想はせず、明るく自然あふれる庭をつくった。
芝生
“苔はおもしろくない”と評価し、明るい自然な芝をとりいれた。
しかし、湿気が多い京都では苔の育成が向いていて、のちのちは苔も楽しむようになる。
東山と一体化
向こう側に東山があって、その一部のように手前に無鄰菴の庭が広がりスケール感が演出されている。
「無鄰菴会議」の洋館
無鄰菴には2階建ての洋館がある。この2階が「無鄰菴会議」の現場。
山縣有朋は第3代と9代の内閣総理大臣を務めた。
大日本帝国憲法が発布され、日清戦争が起こった頃だ。
無鄰菴会議は11代桂太郎内閣のときに行われた。
無鄰菴会議とは
無鄰菴会議は日露戦争勃発の前年に開かれたロシアとの交渉方針を決めた会議。
出席者は
桂太郎 首相。長州藩出身
伊藤博文 前首相。長州藩出身
山縣有朋 前々首相。長州藩出身
小村寿太郎 外務大臣。飫肥藩(おびはん。宮崎県)出身
ここで話し合われたロシアへの交渉は決裂し、日露戦争が開戦されることになる。
無鄰菴会議までの背景と内容
日本とロシアは満洲・韓国をめぐり争っていた。
ロシアに対しいかに対応するか、二つの考え方があった。
1)ロシアと協調する派
2)イギリスと同盟派
当初、2)が優勢で、日本はイギリスと同盟を結んだ(1902年)。
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日英同盟
・清(中国)について 日本・イギリスお互い利権を守る。
・韓国について 日本の利益を守る。
・一方が戦争になったら援護する。
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日英同盟にもかかわらず、ロシアはかまわず韓国にたいし強硬姿勢を継続し、日本はロシアへの対応を協議した。
これが「無鄰菴会議」
ここではロシアに歩み寄る「満韓国交換論」が決まったが、結局決裂し、日露戦争へと向かうことになった。
写真は、無鄰菴会議を再現した部屋。通常は非公開。
民間企業が管理運営しており、カフェ、イベント、庭園講座、交流会など、観光客フレンドリーに開催されている。
国指定名勝
庭園