【北野天満宮】学問の神様 菅原道真が祀られている。道真と牛のエピソードとは?

◎菅原道真が祀られている。
◎〇〇天満宮・〇〇天神の総本社。
◎なで牛がある。
◎豊臣秀吉が北野大茶会を開催した。

ゆかりの人物:菅原道真(御祭神)
創建:平安時代

菅原道真はどんな人か

菅原道真が有名なわけ

菅原道真は平安時代の貴族で、朝廷に勤務し一番偉い左大臣につぐ2番目に偉い右大臣になった人物。
平安時代は藤原氏が勢力を増していて、天皇-藤原氏-他の貴族の間で権力をめぐるかけひきが行われており、道真は政争の波に巻き込まれ敗れたことで悲劇の人としてかえって名をのこすこととなった。

菅原道真はなぜ左遷されたのか

菅原家は貴族としては古く、学問において朝廷に仕えてきたが、政治的には力をもっていなかった。
道真の時代の天皇は宇多天皇。
宇多天皇は、藤原の勢いを食い止めようと菅原道真を抜擢した。
次の醍醐天皇は、左大臣・藤原時平に対抗し右大臣として道真を昇進させた。

これに藤原勢は危機感をもつ。
醍醐天皇に「道真は醍醐天皇を廃そうとたくらんでいる」と嘘を吹き込み、これを真に受けた醍醐天皇は道真を九州の大宰府に左遷した。

道真は大宰府に流されてから2年後の903年、59歳で病死した。

菅原道真がなぜ北野天満宮に祀られているのか

菅原道真がなぜ北野天満宮に祀られているのか。
それは、道真が死後、怨霊となり関係者に祟り、それをしずめるために造られたのが北野天満宮だからだ。

そのいきさつが北野天満宮に伝わる『北野天神縁起絵巻(承久本)』【国宝】に描かれている。
『北野天神縁起絵巻(承久本)』は鎌倉時代に作られたもので、北野天満宮の由来と霊験のエピソードがまとめられている。

『北野天神縁起』(承久本)巻四より。大宰府の配所にて、かつて帝から賜った衣を取り出し涙ぐむ道真。

道長雷神となる

道長は死後怨霊となって、生前教えをうけていた比叡山の最高位の住職のところに現れた。
これから恨みを晴らすから止めないでくれといい、雷神となって朝廷の内裏を三度襲った。
醍醐天皇は住職に鎮めるよう頼み、住職は怨霊を鎮めることに一時的には成功した。

しかし908年、左遷に関係した藤原氏、翌年藤原時平も病死するなど、怨霊はなくならなかった。

清涼殿落雷事件

極めつけは930年の清涼殿落雷事件。
都に雨が降らないため、高官たちが干ばつ対策を御所・清涼殿で協議していた。
そこに急に落雷が起こり、数人が感電死した。
ショックで醍醐天皇は寝込み3カ月後に亡くなった。

『北野天神縁起絵巻』(承久本)。醍醐天皇がおられた清涼殿に雷神が雷を落としている場面

道真のお告げで北野社ができる

943年、多治比文子(たじひのあやこ)という子ども(巫女と考えられている)が道真の霊からのお告げをうけた。
右近の馬場(現在の北野天満宮の場所)に社殿を造って自分を祀れば恨みを収めるという。
文子は馬場に社殿を造ることはできなかったが、自分の邸内に祠を造って道真を祀った。

のちに右近の馬場に移され、これが現在の北野天満宮の基礎・北野社となった。

文子が邸内に祀っていた祠が現在の北野天満宮境内にある。文子天満宮として移されたもの。

藤原氏が北野社の御社殿を造営

藤原氏にも菅原道真と親交があったものがいた。
道真を左遷の陥れた藤原時平の弟・忠平だ。

忠平の息子(師輔)が959年、北野社の大規模な社殿の造営を行った。

ちなみに師輔はNHK大河ドラマ「光る君へ」で段田安則演じる藤原兼家の父。
藤原兼家は藤原道長の父。

これらの建造物は応仁の乱で被災するが、豊臣秀吉によって再興がなり、息子・秀頼の援助によって現在の社殿が造営された。

北野社は北野天満宮に、菅原道真は天神さまになる

987年、北野社で行われる祭は勅祭(朝廷の祭)となり、天皇は道真に正一位左大臣を贈られた。
九州大宰府の墓には勅使が派遣され、道真の御霊は北野に迎えられ「北野天満大自在天神」の神号をうけ、祟りは起こらなくなった。
菅原道真は天神さまとよばれるようになる。

なぜ菅原道真は学問の神様なのか

そもそも道真には多くの御利益がある。
農耕、えん罪をはらす、学問、芸能、厄除け、武芸など。

学問の神様として広く認識されるようになったのは、江戸時代、寺子屋の教室に道真の「御神影」が掲げられて学業成就や武芸上達が祈られたことがきっかけの一つだそう。

北野天満宮の建造物

一の鳥居

大正時代の建立で、「天満宮」の扁額は閑院宮載仁親王(江戸末期から昭和の時代の皇族)筆。

楼門

額には「文道大祖 風月本主」と書かれている。
平安時代の学者が道真を讃えたことば。

三光門(中門)【重要文化財】


「天満宮」の扁額は後西天皇(江戸時代の天皇)筆。

三光は、日、月、星の意味で、梁の間に彫刻があることが名の由来だが、星の彫刻だけがない。

日の出

日の入り



月に遊ぶうさぎがいる

本殿【国宝】


豊臣秀頼が1607年に造営した。
造営当時のまま保存されており、神社建築のなかで唯一のもの。

絵馬所【京都市指定有形文化財】

1699年に建造されたもので、現存する絵馬所のなかで随一とも。

摂末社

北野天満宮の境内には、50の摂社と末社(系列のミニ神社)が建っている。
文子天満宮:入試・学業成就
白太夫社:子授け・安産の神
豊国神社:開運・立身出世の神
猿田彦社:芸能・舞踊上達
牛社:なでると一つだけ願がかなう。
などなど。

北野天満宮にはなぜ「なで牛」があるのか

北野天満宮にはいくつも牛の像がある。なでるとよいことがあるとされ、参拝者が皆なでてピカピカだ。

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北野天満宮と牛はどういった関係があるのか。
由来については定説はない。
飯田紀久子執筆『変貌する北野天満宮』「天神信仰における牛の由来」によると、次の4つが説としてあげられる。

1) 菅原道真が丑年生まれだから
2) 殺牛祭神とのかかわり
3) 神号由来
4) 「北野天神縁起」の中の牛にまつわる

1)道真の確定した記録はないため ?
2)殺牛祭神と天神信仰の関連ははっきりしないため ?
3)菅原道真の神号はいくつかあり、天満大自在天、日本太政威徳天などがある。
大自在天、大威徳明王は仏教で双方とも牛に騎乗している。

大自在天

大威徳明王


ある時期からこの像のイメージが牛と道真を結び付けた可能性はある。
4)『北野天神縁起絵巻』に道長の遺体を墓所に運ぶ牛が動かなくなったため、そこに埋葬した。というエピソードがあり、これは道真と牛の深い関わりを示しているといえる。

本殿 正面梁にも牛

豊臣秀吉が北野の大茶会を行った

豊臣秀吉は北野天満宮で大茶会を開催している。
1587年、秀吉が全国を統一する3年前のこと。
九州を平定した戦勝祝いと聚楽第の完成記念を兼ねたイベントだった。

10月1日に、町人、百姓、貴賎、貧富を問わない参加を募った。
大茶会への参加者を広げることは秀吉の支配の範囲を武士だけでなく一般の人々に広げることでもあった。

大茶会には、千利休、津田宗及、今井宗久という当時のビッグ3茶人が茶頭を務めた。

公家や茶人たちが設けた茶屋は1500~1600にのぼり、諸大名から集めた名器が披露されたそう。

京都市茶業組合創立百周年記念に1979年に建てられた

出雲阿国が歌舞伎踊りを始めた

出雲阿国は歌舞伎踊りの創始者として知られ、京都で歌舞伎が上演される四条河原町の南座の通りの対角線上に「出雲阿国像」が立っている。
阿国は四条河原で伊達男風の扮装で「かぶきをどり」を踊ったという。

阿国が歌舞伎踊りをはじめたのは、関ケ原の戦いがおわり徳川家康が江戸幕府を開いた頃の1603年、北野天満宮においてであった。
北野天満宮のある北野の地は古くからなにかと人の集まる場所であり、踊りを神に奉納するという形でパフォーマンスすることで人々の注目を集めた。

出雲阿国を描いた最古の屏風絵。京都国立博物館収蔵『阿國歌舞伎圖屏風』六曲一隻、紙本金地著色。北野社で阿国歌舞伎の代表的演目である「茶屋遊び」が演じられているところ。


国宝

御本殿
「北野天神縁起絵巻」

重要文化財

三光門

御祭神

菅原道真

北野天満宮ホームページ

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