◎門跡寺院
◎江戸初期の宮殿建築が見られる。
◎徳川家康が皇位継承に介入した痕跡がある
◎1分でお遍路 四国八十八カ所霊石巡りができる
◎水戸光圀寄進の勧修寺型灯篭がある
ゆかりの人物:醍醐天皇(創建)、明正天皇(書院、宸殿を寄贈。徳川秀忠の孫)
創建:平安時代
醍醐天皇創建の寺
醍醐天皇は菅原道真を左遷した天皇
醍醐天皇は平安時代の天皇。
菅原道真を大宰府へ流した人物だ。
醍醐天皇はのちのち道真の亡霊に苦しめられることとなる。
醍醐天皇は怨霊を振り払おうと醍醐寺に願いをかけた。
醍醐天皇は生前は敦仁天皇であり、醍醐寺を私寺として厚く信仰したため、死後醍醐天皇が諡号(死後贈られる名)となった。
その醍醐天皇。
父は宇多天皇で母は藤原胤子(いんし)。
醍醐天皇が母・胤子を弔うために胤子の母の実家を寺院としたのが勧修寺(かじゅうじ)。
寺名・勧修寺は胤子の父・藤原高藤(たかふじ)の諡号からとられた。
900年のことだ。
勧修寺は門跡寺院
勧修寺は門跡寺院だ。
門跡寺院とは皇族が住職を務める寺院をいう。
鎌倉時代の1309年に寛胤(かんいん)法親王が就任して以来、明治維新まで皇族が住職を務めた。
門跡寺院ならではの宮殿建築、塀、庭園
応仁の乱からの復興
勧修寺は室町時代、応仁の乱により全焼した。
桃山時代には豊臣秀吉が伏見城を建てる際に道を通すために境内が縮小されるなど苦難の時期を経験する。
復興したのは江戸時代。
徳川5代将軍綱吉の頃。
復興には皇室と徳川家の援助があり、御所から御殿が移築された。
江戸初期の宮殿建築が現存
御所から勧修寺に移築されたのは
書院
明正天皇の旧殿。
宸殿
明正天皇の旧殿。
本堂
霊元天皇の仮内侍所。
天皇の住まいだった建物をこんなに近くで見ることができる。
築地塀
御所からの移築ではないが、門にたどりつくまでの長い塀は白く四条の横線が入っていて、権威ある寺院であることが示されている。
御所の築地塀
庭園
平安時代の王朝風庭園の名残で池泉舟遊式。
池を舟で巡って楽しむ庭園。
勧修寺が秀吉に破壊された後、古地図によって再現されたもの。
明正天皇とは、霊元天皇とは
宸殿には「明正殿」と額がかかっている。
明正天皇は徳川2代将軍秀忠の孫にあたる女性天皇(859年ぶり)。
徳川家康は皇位継承に介入し、秀忠の娘・和子(まさこ)を後水尾天皇の皇后にし、天皇家にくいこんだ。
後水尾天皇と和子の間に誕生したのが、明正天皇だ。
霊元天皇は明正天皇の3代後の天皇で、後水尾天皇と別の母との間に誕生した子。
1分でお遍路 四国八十八カ所霊石巡りができる
なんと。1分以内に四国八十八カ所霊場ならぬ四国八十八カ所霊石を巡ることができる。
寺院内の一角に弘法大師様の像が建立されていて、その周りに足跡くらいの石が八十八置かれている。
そこをとんとんと歩いてお遍路ができるのだ。
楽しい。ありがたい。
四国八十八カ所霊場めぐりとは
真言宗を開いた空海が四国の讃岐(香川県)出身で、四国での修行の際、八十八カ所の寺院で霊場を開いた。
のちに修行僧が八十八カ所霊場を巡礼するようになり、その巡礼をお遍路といった。
これが広く一般に行われるようになった。
勧修寺型灯篭 さざれ石
勧修寺型灯篭
水戸黄門様が寄進された灯篭。かわいらしさで有名。
さざれ石
ところどころに見どころの札が設置されていて、とても観光客フレンドリーなお寺。
重要文化財
書院
宗派
真言宗
日本のおもな宗派
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真言宗 | |
浄土宗系 | 浄土宗 |
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