◎反逆精神を貫き和歌を愛する僧、日禛(にっしん)上人が開いた。
◎角倉了以が場所を提供。
◎藤原定家の山荘が近くにあった。
ゆかりの人物:日禛(にっしん)上人(創建)、角倉了以(場所提供)
創建:安土桃山時代
日禛上人、豊臣秀吉の方広寺大仏への出仕を断る
秀吉は、晩年に方広寺を創建した。
今の方広寺よりもはるかに広い敷地で、そこに大仏を建立した。
【方広寺】「国家安康・豊臣豊楽」の鐘がなにげなくある寺
◎豊臣秀吉が創建した。 ◎「国家安康・豊臣豊楽」の鐘が現存。 ◎巨大な大仏殿と大仏があった。 ゆかりの人物:豊臣秀吉(創建) 創建:安土桃山時代 方広寺は巨大な敷地と大仏が存在していた 方広寺(ほうこうじ)は、1595年に豊臣秀吉によって創建された。 現...
秀吉は、この大仏の開眼供養のための出仕を京都法華宗に命じた。
この命令に従わず隠居生活に入った僧・日禛が創建したのが常寂光寺。
秀吉と京都法華宗
秀吉の創建した方広寺は天台宗で、京都法華宗からすると他宗教である。
当時は他宗教から布施を受けたり、布施をしたりするしないことが当たり前で、日禛ら法華宗からすると秀吉の命令は受け容れられない。
しかし、秀吉の強権は脅威で法華宗としても受け入れざるを得ない。
ここで、本圀寺の日禛と妙覚寺の日奥(にちおう)は反対を貫き、2人は開眼供養にも参加せず、それぞれ隠遁生活に入った。
日禛上人 常寂光寺を創建する
日禛上人は嵯峨嵐山の小倉山を隠遁生活の場に定め、常寂光寺(じょうじゃっこうじ)を創建した。
ここは日禛上人と親交のあった角倉了以(すみのくらりょうい)から提供を受けた場所。
角倉了以は豪商で、小倉山一帯を所有していた。
角倉了以の保津川と高瀬川開削
角倉了以は医者・金融業などを営む裕福な家に生まれた。
南蛮貿易で財をなし豪商となっていた。
了以は、1608年に保津川、1611~1614年に高瀬川を開削し、運河による物資運送を可能にした。
了以は日禛を信仰していた。
小倉山は藤原定家の別荘があったところで、歌道を好む日禛上人はこの提供をとても喜んだという。
藤原定家の小倉百人一首
小倉山は嵯峨嵐山にある小高い山。
嵯峨嵐山は平安時代から風光明媚な地として知られ、貴族の別荘地であった。
平安・鎌倉時代の歌人:藤原定家もここに山荘を持っていた。
定家は、鎌倉幕府の武士で歌を好む宇都宮頼綱と親交があり、頼綱から自分の別荘に飾る和歌の選択を依頼された。
定家は小倉山山荘で選出作業を行ったことから選ばれた和歌は『小倉百人一首』とよばれる。
常寂光寺のみどころ
仁王門
日禛上人がもと務めていた本圀寺客殿の南門にあったものを、移築したもので境内で最も古い。
仁王門像は運慶の作と伝えられる。
本堂
小早川秀秋の支援をうけて桃山城の客殿を移築したもの。
小早川秀秋は秀吉の妻・ねねの甥で秀吉の養子となり、後に小早川家の養子となる。
関ケ原の戦いで家康側に寝返り家康勝利のきっかけをつくった。
日禛を信仰していた。
藤原定家の小倉山荘跡
常寂光寺の仁王門と二尊院の間にあったと考えられている(諸説あり)。
藤原定家の歌仙祠、時雨亭跡
展望台に向かう多宝塔の上にある。
歌仙祠は、定家の御神像を祀った祠。
もともとは山の下にあったが、常寂光寺を創建した際、日禛上人が自分のお堂よりも下にあるのは畏れ多いとして山の上に移したといわれている。
時雨亭跡の場所には小さな庵があり戦前まで存在していた。
重要文化財
多宝塔
宗派
日蓮宗
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