【神護寺】空海が住んでいた。最澄への手紙 風信帖がある。源頼朝の肖像画がある。

◎空海が住んでいた。
◎空海と最澄が交流した。
◎有名な伝源頼朝の肖像画がある。
◎古くから紅葉の名所。

ゆかりの人物:空海(住んでいた)、最澄(空海より先に真言を伝えた)、和気清麻呂(神護寺の起源は和気氏の氏寺)、文覚上人(復興した)
創建:平安時代

神護寺と空海

神護寺といえば空海だ。
空海は東寺を任されたことで有名であるが、その前に神護寺に住み宗教活動を行っていた。

空海は密教の僧。
密教は平安時代の当時新しいジャンルの仏教だった。
奈良時代は、華厳宗や法相宗など奈良で栄えた南都六宗と天台宗が中心だった。

この新しい仏教である密教の僧を受け入れたのが京都の神護寺なのだ。

空海、日本初の密教による修法を行う

空海は809年に神護寺に住み、ここを拠点に密教布教に向け精力的な活動を開始した。
810年に薬子の変(51代平城天皇と52代嵯峨天皇の権力争い。嵯峨天皇が勝利した)が起こった際には、日本初の密教による祈祷などを行い、これをきっかけに空海の名が広く知れわたった。

神護寺に残る空海直筆の書

神護寺には、空海本人が実際に書いた書が残されている。
灌頂歴名(かんじょうれきみょう) 空海が密教の教えを授けた僧の名が記録されている。

灌頂歴名【国宝】


名前の最初に「一 最澄」とある。

最澄天台宗比叡山延暦寺
空海真言宗(密教)高野山金剛峯寺

で有名な2人であるが、神護寺で交流があったことがわかる。

年齢的には最澄が8歳年上で、空海が修行僧の頃、最澄はすでに高僧であった。

ところが灌頂歴名をみると、空海が最澄に密教の教えを伝授したことがわかる。
つまり、空海が先生、最澄が生徒の関係。

空海が神護寺に住むようになったのは、最澄の推薦があったともいわれている。

空海と最澄はどういう関係だったのか。

神護寺と空海と最澄

空海と最澄、唐へ留学する

空海、最澄とも古い奈良の仏教とは違う平安の新しい仏教を志していた。
2人は同じ時に唐に留学した(804年)。
時期は同じであったが、最澄は朝廷から派遣された正式な僧として、空海は私費留学生としてと、身分は大きく違っていた。

最澄は天台、禅、密教を学んで翌年帰国した。

空海は密教を専門に学んで2年後に帰国した。
留学期間は20年間の予定であったが、優秀過ぎて2年弱でマスターしての帰国となった。

最澄が天台宗の”ついで”に密教を学んだのにたいし、空海は密教界の第一人者恵果(けいか)から教えを受け、正統を継承するほど極めた。

帰国後の空海と最澄

帰国後、神護寺に住む空海と比叡山の最澄は、帰国後論書などを貸し借りし交流を深めた。
その一端がうかがいしれる空海が最澄に宛てた手紙『風信帖(ふうしんじょう)』が東寺に残されている。

風信帖【国宝】

「風雲の便りが天から翔け下りるかのように、あなた様のお手紙を拝受しました」から始まっていて、微笑ましい。

最澄は密教に関して自分をしのぐ空海の実力を理解し、空海から多くのことを学ぼうとした。
真言、梵字、華厳などの経典の借用をたびたび依頼し、空海から灌頂を受け弟子入りさえした。
密教に関しては空海の格が段違いに高く、立場が逆転したというわけだ。

一方空海も、仏教界重鎮の最澄との関係はもちたいし神護寺に推薦してくれたお礼もあり、快く対応したとみられる。

しかし、この関係は長くは続かなかった。
おおまかに二つの理由があるといわれている。
・最澄が密教の神髄の経典『理趣経(りしゅきょう)』を所望したが、空海は密教は書を読んだくらいで修得できるようなものではないと固く断った。
・最澄の弟子が空海のところに修行に来ていたが、その弟子の比叡山復帰を空海が断った。

神護寺と最澄

最澄はなぜ神護寺と関係があったのか。
神護寺の前身=高雄山寺(たかおさんじ)と最澄を結んだのは、和気清麻呂(わけのきよまろ)。
和気清麻呂は平安遷都に尽力した朝廷に仕えた貴族で、高雄山寺(後の神護寺)の創建者。

和気清麻呂は古い奈良の仏教に代わる新しい仏教を求めており、最澄に目をつけた。

和気清麻呂が奈良の仏教を嫌った理由がある。
「道鏡事件」だ。

「道鏡事件」は和気清麻呂にまつわる有名なエピソード。
道鏡は僧だが、女性天皇に気に入られたため次期天皇になりそうになった。
道鏡は元は山岳修行者にすぎず、皇位の継承としては極めて異例。
これを和気清麻呂が防いだ。
というもの。

道鏡は奈良の仏教の法王となり政治をとりしきっていたため、和気清麻呂は腐敗した古い仏教打倒をめざしたのだ。

和気清麻呂自身ではかなわなかったが、息子が父の思いを継ぎ、高雄山寺に最澄を招いて講義をさせた(802年)。
講義は第一級の僧をも驚かせるような質の高いもので、以降神護寺(高雄山寺)と最澄との関係は良好となる。

最澄はその後唐に留学する(804年)。
帰国後は、世の中が新しい時代の仏教として密教に注目していて、最澄は神護寺で日本で初めて密教の教えを授けた。

神護寺といえば空海であるが、実は神護寺で最初に密教を伝えたのは最澄だったのだ。

高雄山寺から神護寺へ

神護寺は二つの寺が合わさって一つになった寺。
一つは神願寺(じんがんじ)。和気清麻呂が桓武天皇の許しを得て建てた官寺。場所は不明。
もう一つは高雄山寺。和気清麻呂が建立した私寺。現在の神護寺の場所にあった。

824年に合併し「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)、略して神護寺」となった。

神護寺の源頼朝肖像画【国宝】

神護寺には、あの有名な源頼朝と伝わる肖像画がある。
なぜ神護寺にあるのか。

空海・最澄の時代の大発展の後2度火災で壊滅状態となった神護寺を復興した文覚上人との関係による。

文覚上人は平安時代末期の僧。
平清盛が権力を握り、後白河法皇らが平氏打倒をもくろんでいた頃。

文覚上人はその後白河法皇に寄進を頼んだものの、あまりの強引さに伊豆に流された。
そこで源頼朝に出会った。
頼朝は父が平治の乱で敗れ伊豆に流されていたのだ。

文覚上人は頼朝に平家打倒を強く迫り、頼朝は挙兵を決意、平家は滅亡し鎌倉幕府が樹立された。
その際、頼朝は神護寺復興を約束したという。

文覚上人は恩赦で神護寺に戻る。
その後、後白河法皇から寄進を受け、神護寺は復興した。

文覚上人の伊豆流しは、後白河法皇が文覚上人に頼朝に挙兵を説得させるために行かせたのでは? という話もある。

神護寺の両界曼荼羅【国宝】

神護寺には、空海が直接制作にかかわった両界曼荼羅(りょうかいまんだら)(高雄曼荼羅 たかおまんだら)が現存している。
現存しているなかで最も古い曼荼羅。
2016年から修理が行われ、2023年5月10日に開眼法要が行われた。

左:金剛界曼荼羅、右:胎蔵曼荼羅。神護寺展図録より


国宝

御請来目録(ごしょうらいもくろく 最澄筆)
灌頂歴名(かんじょうれきみょう)
金銅密教法具(こんどうみっきょうほうぐ)
風信帖(ふうしんじょう)
両界曼荼羅(高雄曼荼羅)(りょうかいまんだら)(たかおまんだら)伝源頼朝像(でんみなもとのよりともぞう)
釈迦如来像
五大虚空蔵菩薩像(ごだいこくうぞうぼさつぞう)
ほか。

重要文化財

神護寺略記
弘法大師像
源頼朝寄進状
神護寺絵図
高山寺絵図
ほか。

宗派

真言宗

日本のおもな宗派

密教系天台宗
真言宗
浄土宗系浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

神護寺ホームページ

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