◎平安京を約8分の5サイズで復元したもの。
◎平安遷都1100年を記念して明治時代に創建された。
◎時代祭りを主催するのは附属の平安講社。
ゆかりの人物:桓武天皇(平安京へ遷都を行う。御祭神)、孝明天皇(江戸時代最後の天皇。幕末の混乱期に在位した。御祭神)
創建:明治時代(明治28年)。
平安神宮と平安遷都千百年記念祭
平安神宮は明治時代に、平安遷都千百年記念祭を記念して創建された、平安京をモチーフとして造られた建造物。
敷地の関係で、サイズは約8分の5で造られた。
平安遷都千百年記念祭は、幕末の混乱で疲弊し衰退していた京都が復興の印として1894年に行った博覧会などの記念行事。
博覧会会場の隣に造営されたのが平安神宮。
幕末から明治維新により首都は京都から東京へ遷り(1868年)天皇陛下も東京へ遷った(1869年)。
しかし、千年以上、政治・文化の中心として機能したのは京都なのだ、という歴史がある。
そこをおさえると同時に新しい時代の京都を造っていこうという未来を志向するのが平安遷都千百年記念祭であった。
1100年は、桓武天皇が京都を都とし、平安京を造営したのが794年なので、そこから数えてということだ。
記念殿として創建された建物に、桓武天皇を祀って平安神宮とした。
皇紀2600年(1940年) 孝明天皇が合祀される
第121代孝明天皇は江戸時代最後の天皇で、1867年に逝去した。
幕末の混乱時に在位した天皇。
皇紀2600年(1940年)に合わせ、平安神宮に合祀された。
皇紀2600年は、初代天皇・神武天皇が即位したとされる紀元前660年から数えて2600年目にあたる1940(昭和15)年をさし、即位を祝う記念行事が行われた。
明治維新以来、近代化を進める日本の指導者は「日本は西欧列強とは違う特別な国なのだ」という意識を国民に浸透させる必要があった。
その目的のために採用・明文化したのが『日本は2600年続く「万世一系」の国である』という考え方だ。
1940年は日中戦争が勃発し太平洋戦争へなだれこむ時期であり、この年に行われた皇紀2600年記念行事は国民の一体感を醸成するイベントとして推進された。
平安神宮の建造物
唐を意識した平安貴族の好みがとりいれられた中国の宮殿建築のほか、日本の宮殿建築、住宅建築、仏教建築の影響も強く受けている。
青い屋根
五間三戸の門
門が五つに区切られ、正面三つが開閉できるようになっている。
これは、奈良東大寺の南大門と同様な構造。
鴟尾
鴟尾(しび)は屋根の両端にあり、平城京、東大寺、唐招提寺など奈良の寺にあったもの。
鯱と同様、防火の呪術の役割がある。
大鳥居
応天門エリア
応天門
應天門の文字と空海
平安京の應天門に掲げられた額は、空海の筆によるもの。
掲げられてから「、」が一つないことに気がつき追記したということから、「弘法も筆のあやまり」ということわざがうまれたといわれている。
神楽殿/額殿
神楽殿
額殿
大極殿エリア
大極殿
大極殿といえば一般的に正殿だが、平安神宮は正殿はこの奥にある。
白虎楼(西歩廊)/ 蒼龍楼(東歩廊)
白虎楼
蒼龍楼
平安神宮神苑
明治・大正時代の代表的庭園。
庭師・植治(うえじ)が造園した。
植治は無鄰菴などをつくった人気造園家。
社殿を取り囲むように南(みなみ)苑、西(にし)苑、中(なか)苑、東(ひがし)苑の四つの庭があり、それぞれに池がある。
東の栖鳳池(せいほういけ)には二階楼の泰平閣(通称「橋殿」)が建てられている。楼の上には鳳凰が乗っている。
時代祭
平安神宮の例祭「時代祭」として毎年10月22日に行われている。
10月22日は桓武天皇が移られた日。
平安遷都千百年記念祭の式典の最終日に行われた「時代風俗行列」がはじまり。
祇園祭:八坂神社の祭礼
葵祭:下鴨神社と上賀茂神社の例祭
とあわせ、京都三大祭りのひとつ。
明治維新から時代をさかのぼって平安京の時代までを、時代に合わせた衣装で京都御所を出発し平安神宮に戻ってくるコースを大行列で練り歩く。
時代考証が精緻にされているところがみどころ。
国指定名勝
平安神宮神苑
御祭神
第50代 桓武天皇
第121代 孝明天皇