◎『名水百選』「御香水」がある。
◎鳥羽伏見の戦いで新政府軍(薩摩藩)の陣地だった。
◎主祭神は安産の神様。
ゆかりの人物:神功皇后(主祭神)
創建:不詳
御香宮の名前の由来
御香宮(ごこうのみや)神社には「御香水(ごこうすい)」とよばれる水場がある。
平安時代の862年に湧き出し、よい香りがしてこの水を飲むと病気が治ったことから、当時の清和天皇が「御香宮」と命名した。
現在でも湧き出し続けていて、環境省の「昭和の名水百選」に選定された。
ちなみに、京都府で昭和の名水百選に選ばれたのは「御香水」のほか、宮津市の「磯清水(いそしみず)」。
平成の名水百選に選ばれたのは舞鶴市の「大杉の清水(おおすぎのしみず)」「真名井の清水(まないのしみず)」、綴喜郡井手町の玉川(たまがわ)。
御香宮のみどころ
拝殿 正面軒唐破風
上部彫刻の向かって右は「鯉の瀧登り」、左は琴高仙人が故意にまたがって瀧のなかほどまで登っている様子。
琴高仙人は琴の名人で龍を捕らえると約束し、約束の日に鯉にのってやってきたというエピソードをもつ。
1625年につくられ、1997年に復元された。
小堀遠州ゆかりの石庭
江戸時代の大名で庭師・小堀遠州が伏見奉行についていた際、奉行所内につくった庭園の石を戦後移して作庭された。
御香宮は鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩が陣を構えた
鳥羽、伏見は大阪から京へ向かう途中に位置する。
ここで、薩摩藩 vs 幕府の戦いが行われた。
鳥羽伏見の戦いとは
鳥羽伏見の戦いは、1868年1月、徳川幕府軍(東軍)とそれを倒そうとする討幕派の長州藩・薩摩藩ら(西軍)とが本格的に敵対した戦争。
倒幕派が勝利。
その後、幕府は江戸城を明け渡すも平和は訪れず、幕府軍が抵抗する戦争・戊辰戦争の端緒となる。
なぜ鳥羽、伏見だったのか。
鳥羽、伏見は大阪から都へいく途中に位置していて、また伏見には薩摩島津伏見屋敷があった。
伏見奉行所には旧幕府軍が陣取っていて、新政府軍は御香宮神社に大砲を設置し、伏見奉行所を砲撃した。
なぜ大阪からなのか。
その時、将軍・徳川慶喜は大阪にいて、そこから薩摩討伐に向かったから。
なぜ慶喜は大阪にいたのか
大政奉還の後、倒幕派の主導で出された「王政復古の大号令」で倒幕派が新政府となり、慶喜は朝敵とされてしまった。
慶喜は朝廷には抵抗しない姿勢で、京にいて争いになることを避け大阪城へ移っいてたから。
なぜ慶喜は薩摩討伐に動いたのか
慶喜が逃げ腰の姿勢でいる間をついて、幕府を倒したい薩摩は江戸の政治を不安定にさせようと、江戸で強盗や脅しなど治安を悪化させ、江戸城に放火するなど荒らしていた。
慶喜はこれを許さず薩摩を討つ命令を出し、幕府軍の会津藩・桑名藩を京都へ進撃させた。
鳥羽・伏見の戦いは薩摩が勝利。理由は
人数的には幕府側が優勢であったが、薩摩が勝利した。
その理由は
・薩摩が大砲や新式の銃を装備していた。
・薩摩が天皇の軍であることを示す「錦の御旗」を掲げた。
この瞬間に薩摩が朝廷の軍、幕府は朝廷の敵となった。
なぜ錦の御旗を薩摩が掲げたのか
錦の御旗は、公家の岩倉具視(いわくらともみ)が朝廷の一部を利用して偽の勅命を出させて、薩摩・長州に製作させていた。
岩倉は孝明天皇に意見したことが取り入れられなかったことをきっかけに、朝廷と幕府、幕藩体制とは全く別の新しい政治を行うことをめざし、倒幕派と協同していた。
戊辰戦争へ
鳥羽・伏見の戦いで新政府(倒幕派)は勝利したが、日本全国には旧幕府の勢力が存在しており、戦いは拡がっていった。
新政府軍、江戸城総攻撃を計画。そして中止。
1868年4月、新政府軍は江戸城総攻撃を予定していたが、薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟との交渉で中止した。
徳川慶喜は江戸城を明け渡した。
新政府軍と旧幕府軍の戦い、全国へ拡大。
新政府が徳川の処分を発表すると、納得できない徳川の不満が噴出し、さらなる新政府軍と旧幕府軍の戦いが勃発した。
戊辰戦争 おもな戦い
1868年1月 鳥羽・伏見の戦い
場所:京都
1868年5月 彰義隊の戦い
場所:東京・上野
新政府 vs :上野彰義隊
上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜を守る「彰義隊」を新政府軍が鎮静。
1868年5月~7月 長岡城の戦い
場所:新潟県長岡
新政府 vs :長岡藩
長岡藩が一時勝利したが、後陥落。
1868年8月~9月 会津の戦い
場所:福島県
新政府 vs :会津藩・米沢藩・仙台藩など
8月23日 会津藩が組織した16~17歳の武家男子で構成される部隊・白虎隊が自刃。9月20日 会津若松城開城。
1869年5月 五稜郭の戦い
場所:北海道函館
新政府 vs :旧幕府・榎本武明(えのもとたけあき)ら
幕府の海軍副総裁だった榎本武揚が、函館の五稜郭を制圧し、函館政権を樹立したが、かなわず全面降伏。
戊辰戦争最後の戦いとなった。
安産の神様 神功皇后とは
神功皇后(じんぐうこうごう)は弥生時代の天皇・仲哀天皇の妻。
この時代、朝鮮半島南部との戦争が行われていた。
仲哀天皇は急死するが、その後、神功皇后が引継ぎ妊娠したまま朝鮮半島に出陣した。
勝利し筑紫(福岡)に帰国し、応神天皇を生んだ。ということで、困難時に無事出産するも無事に育てあげたという逸話がある。
朝鮮半島と戦う神功皇后の様子。月岡芳年筆「日本史略図会 第十五代神功皇后」
重要文化財
本殿
表門
京都府指定文化財
拝殿