【金閣寺(鹿苑寺舎利殿)をつくった足利義満】どんな人物なのか

◎金閣はなぜ金なのか。なぜこんなにかっこいいのか
◎なぜこのような建物が造られたのか

その答えは
金閣寺を造った足利義満が最高の権力者で、最高の文化・芸術に投じる資産を潤沢にもち、それを自らの存在のシンボルとしたから。 

金閣寺には足利義満の趣向・意図がふんだんに体現されている。

足利義満はなぜ最高権力をつかんだのか。なぜそれだけの資金があったのか

理由としてつぎの3点があげられる。
①南北朝時代を終わらせた。
②武家・朝廷・宗教それぞれのカテゴリーにおいて頂点にたった
③個人で日本代表として明と交易をして莫大な利益を得た。

①義満が南北朝を終わらせたその方法

朝廷が南北に分かれたのは、義満の祖父・足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえし北朝と結びついたことで始まった(1336年)。
南北朝の対立による乱世は孫の義満の代になっても続いていた。

南北朝対立を収めるのが義満の最重要課題であった。

南北朝対立を収めるための義満の作戦

南朝vs北朝・幕府 の対立構造で軍事的に力をもっているのは幕府だ。
しかし、身分が高いのは南朝だ。
なので、南朝はプライドが高い、幕府に頭を下げるなどということはしない。
となると、和解はできない。
しかし、南朝にも融和ムードがないわけでなく、南朝北朝の朝廷同士が和解する形であれば可能性がある。

そこで義満が発明したのが、幕府である自分が北朝の一員になってしまい北朝代表として南朝と交渉するという方法だ。

義満、武家なのに公家になる

義満が公家になるのは難しくはなかった。
なぜならば、鎌倉時代から幕府が要求すれば朝廷は官職を与えるようになっていたからだ。

義満は朝廷でどんどん出世した。

義満は実際朝廷でも猛烈な働きを見せ、他の公家を圧倒し北朝・後円融天皇さえも怖れる朝廷の支配者になった。

義満、南朝を弱体化させる

義満は、南朝の後ろ盾になっていた有力大名を崩しにかかった。
義満は将軍として有力大名の内紛を誘う施策を実行するなどして、弱体化させた。

義満、北朝の代表となり南北朝を統一する

このころの南朝の天皇は後亀山天皇
後亀山天皇は後醍醐天皇の孫だが、幕府との融和に積極的であった。

北朝の天皇は後小松天皇。
後小松天皇の父は後円融天皇。後円融天皇は義満に圧力をかけられ逆らえない状況にあり、息子の後小松天皇は幼少で完全に義満のコントロール下にあった。

義満は北朝の代表となり、南朝はもはや挽回の可能性は少ないとみて、であるならば有利な条件で交渉しようという機運が高まり講和が成立した。

講和の内容は
南朝に伝わる三種の神器を北朝に譲り渡す
・南朝北朝交互に天皇を出す

1392年、これによって南北朝の統一が実現した。
実際には天皇が南朝にわたることはなく、北朝の天皇が継続した。

②義満、出家し武家・朝廷・宗教界の長となる

武家でも朝廷でもないさらに上の身分へ

義満は武家の長、朝廷のTOPとなり日本統一を果たした。
義満はこれにあきたらず、さらに上をめざした。

それが出家だ。
僧になったからといって、政治の世界から引退したわけではまったくない。
それどころか、天皇の権威が及ばない身分になり、幕府・朝廷の外部からより強くそれらを支配する立場を手に入れた。

義満は南北朝統一のころ、相国寺を創建していた。
出家はそこで行った。

鹿苑寺は相国寺の塔頭(子院)としてある。

義満、北山殿を建造する

義満は、幕府・朝廷を超越した権力のベースとなる場所を、京都中央から出た北山に定めた。

北山は鎌倉時代に朝廷の山荘があり西園寺家が使用していた。
西園寺家は義満が力を持つと権威を失い、義満に譲らされた。

義満は、この場所に国家の中心的な政庁となる「北山殿」を建造した。

北山殿には紫宸殿、公卿の間など多数の建築物があり、そのうちの舎利殿(しゃりでん。お釈迦様の骨や遺灰を祀るお堂)が現在の金閣だ。

③義満、「日本国王」として日明貿易を独占する

壮大で金ピカの建物を建造するには資金が必用だ。
この資金を日明貿易から得ていた。

なぜ義満が独占することになったのか。
それは、時代のタイミングがある。

明の冊封方針

ちょうど義満が征夷大将軍になり(1369年)力を持ち始めていたころ、中国では元が滅び明へと国が変わっていた(1368年)。

明はこれまでの慣習を変え、冊封(さくほう)によってだけ国交を結ぶ政策をとった。
明の皇帝に日本の長が「王」と任命されて、明皇帝よりも下位の立場をとることで初めて貿易を行うことができることを意味する。
朝廷はこれを恥辱と考え国交を結ぶことをしなかった。

義満、「日本国王」として明と国交を樹立

一方、事実上の日本の長である義満は、実利をとって、冊封体制に組み入った。
義満は明皇帝から「日本国王」と認められ、遣明使による貿易が行われることになり、義満は巨万の富を手に入れたのだ。

「日本国王」は日明貿易のための便宜上の肩書であり、国内的には意味はもたなかった。

明との儀礼や交渉は北山殿で行われた。

北山殿破壊される

北山殿は義満の死後、破壊され唯一、金閣(舎利殿)だけが残された。

参考資料:『足利義満消された日本国王』小島毅、光文社新書。『室町の覇者足利義満』桃崎有一郎、ちくま新著。『足利義満』森茂暁、角川選書。

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