◎世界的に有名な龍安寺石庭がある。
ゆかりの人物:細川勝元(創建)
創建:室町時代
なにがなんだかわからない龍安寺方丈庭園(龍安寺石庭)【世界遺産、国の史跡及び特別名勝】
龍安寺(りょうあんじ)には枯山水庭園がある。世界文化遺産に指定されている。
座って全景が視界に入るほどの大きくはない庭が世界的に有名だ。
これは、イギリスのエリザベス女王が来日した際にこの庭をご覧になり絶賛したとイギリス国営放送BBCによって報道されたことがきっかけともいわれている。
しかし、この庭は謎に満ちている。
石の置き方の謎
いつ造られたのか、誰によって造られたのか、作庭したのは誰なのか、何を意図して造られたのかがわかっていない。
意図として多くいわれるのが次の説だが、これらも定説とはなっていない。
虎の子渡しの庭説:虎の子渡しは中国の逸話で、つぎのようなお話。
虎が子どもを3頭産むとそのなかに必ず1匹彪(ヒョウ)がいて、親がいないと他の兄弟を食べてしまう。
川を渡る時、親は①まず彪を向こう岸へ渡して空手で戻り、②虎Aを向こう岸へ渡し帰りに虎を持ってきて、③虎Bを向こう岸へ渡し空手で戻り、④彪を渡す。
やりくりで苦しむことの例えとして用いられることば。
禅寺においては、深く思考してものごとを見ることを示唆しているとされる。
七五三の庭説:15個の石の置き方が向かって左から、7のまとまり、5のまとまり、3のまとまりとなっているとみたもの。
7、5、3はおめでたい数とされていることから。
心字の庭説:石の置き方が全体で「心」の字のようにみえるとしたもの。
刻まれた「小太郎」「清(彦)三郎」の文字:一番奥の横長の石の後ろに「小太郎」「清(彦)三郎」の文字が刻まれているという。
これが作者か?というと、そうではなく職人の名らしい。
エリザベス女王来日
そもそも、エリザベス女王が絶賛したのかどうかもよくわかっていない。
エリザベス女王が「わからない」と話した説もある。
エリザベス女王が来日したのは1975年5月7日~12日。
おもな日程は
7日~9日 東京
10日 龍安寺、桂離宮
11日 西本願寺、京都御所。伊勢神宮
12日 名古屋から東京
龍安寺にいらしたのは10日。
同日に桂離宮で野点(のだて)をされている。
報道では野点だけが報じられていて、桂離宮庭園をご覧になったのかは不明だ。
エリザベス女王が桂離宮に言及した話は出てこないので庭園散策はされなかった可能性が高い。
エリザベス女王は英国王立園芸協会で総裁を務めるほどのガーデニング通。桂離宮にわざわざいらして庭園をみずにお茶だけをされたとというのも合点がいかないが・・・。
とにかく、エリザベス女王は京都にあまた寺院があるなかで、龍安寺にいらした。
桂離宮で見なかった庭を龍安寺ではゆっくりと見た。
わりあいとこじんまりと見学できるところがよかったのかもしれない。
こうなってくると、いつ誰がどのような意図で造ったのかなどこだわらず、49歳のエリザベス女王とフィリップ殿下がご覧になった庭ということで万事よいような気がしてくる。
ちなみに、報道写真をみると、庭に向かって右寄りにお2人椅子を並べて座っている。
毎日新聞ウェブサイトより
龍安寺石庭 15の石質
一つ一つが厳選されたという石ではないそうだ。
チャートは龍安寺周辺に多い石。
緑色片岩は通称、紀州、四国とよばれる。龍安寺を創建した細川勝元は讃岐・土佐(四国)の守護大名だったことがあり、その関係ともいわれる。
龍安寺石庭 パースペクティブ
龍安寺には奥行きを出すためのしかけがほどこされている。
それは土塀・砂面・石それぞれにみられる。
土塀
向かって右側の塀が奥に向かって低く傾斜している。
全体に低い。当時はより広く借景をとりいれていた。
砂面
向かって左側から右方向へ高くなっている。
左奥から手前まで低くなっている。
石
奥にいくにしたがって、低い石が置かれている。
(資料:宮元健次『龍安寺石庭を推理する』集英社新書)
龍安寺 創建者 細川勝元
応仁の乱と細川勝元
龍安寺は1450年、細川勝元によって建立された。
細川勝元は足利第6代から複数代、通算23年にわたって室町幕府を統轄してきた大名。
足利第8代義政の時代の1467年に応仁の乱が起こった。
義政の後継をめぐる争いがきっかけだった。
この戦いで対立した二大有力大名が、細川勝元と山名宗全。
細川勝元は、当初反義政でのちに義政側にたった。
勝元は若いころから禅門に傾倒していて、禅寺の妙心寺の僧であった義天玄承を住職に迎え創建したのが、龍安寺だ。
なので、龍安寺は妙心寺の塔頭(子院)となっている。
応仁の乱からの復興と細川勝元
龍安寺も応仁の乱による火災で被害を受けた。
勝元は子を復興の造営奉行に任じるなど尽力したが、完成を見る前に亡くなった。
その後、大規模に整えられたが、江戸時代の1797年に火災でほとんどが焼失した。
方丈は、焼け残った西源院(勝元が龍安寺内に建てた寺院)の方丈を移築し再建した。
龍安寺のみどころ
方丈【重要文化財】
石庭に注意がいくが、座っている場所が重要文化財の方丈。
鏡容池
平安時代この地が公家の別荘だったころ、この池に舟を浮かべて歌い舞ったという記録があるそう。
昔は石庭よりも有名だった。
「吾唯足知」蹲(つくばい)
茶室・蔵六庵の前に置かれている蹲(手水鉢)。
円形の中心に正方形がくりぬかれ、それを中心に4方向に字が配されている。
正方形は口の字で、四方の字の「へん、つくり、あし、かんむり」になっていて、合わせると「吾唯足知」となる。
吾唯足知は、われただたることをしる、と読み、釈迦の教え「満足することを知っている人は、貧しくとも幸せであり、満足することを知らない人は、たとえお金持ちであったとしても不幸である」をデザインしたもの。
水戸藩主徳川光圀の寄進とされる。
龍安寺垣
参道の両脇に設置されている垣根。
細く切った竹を交差させて組まれたもので、龍の鱗をイメージしている。
侘助椿
豊臣秀吉が賞賛したといわれる。
桃山時代に「侘助」という人物が朝鮮半島から持ち帰ったとされている。
重要文化財
方丈
勅使門
太平記 紙本墨書
史跡、特別名勝
方丈庭園(石庭)
名勝
鏡容池
宗派
臨済宗
日本のおもな宗派
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