【平等院】鳳凰堂、庭園|藤原頼道が自分が極楽浄土へ行くために庶民を酷使してつくった

◎平等院鳳凰堂が有名。
◎極楽浄土を再現している。
◎藤原家絶頂の象徴。
◎『源氏物語』光源氏のモデル候補・源融(みなもとのとおる)の別荘があった。
◎本尊・阿弥陀如来坐像は最高の仏師・定朝作。仏教彫刻の理想。
◎南北朝の争いの舞台。
◎源平の争乱の舞台。

ゆかりの人物:藤原頼道(息子)(創建)、藤原道長(父)(土地を取得)
創建:平安時代

平等院鳳凰堂はなぜあんなにかっこいいのか


平等院のかっこよさのポイントは三つある。
1.左右対称

中心にある建物は中堂で、中には本尊の阿弥陀如来が安置されていて平等院の中心。
その両脇に続いているのは回廊。回廊はアーケードのようなもので、建物をつなぐ廊下。
平等院の回廊は建物同士をつないでおらず、(向かって)右の回廊から阿弥陀仏を礼拝し左の回廊へ抜け、Uターンしてもう一度阿弥陀仏に出会える構造になっている。

2.下の屋根(裳階)がスタイリッシュさを演出

中堂の屋根の下の小ぶりの屋根は裳階(もこし)で、屋根ではなく庇のようなもの。
平等院の裳階は屋根を強調し中堂を細見に見せている。
また、母屋の太い柱を目立たせなくする効果もある。

3.阿弥陀如来のお顔が遠方から拝顔できるようになっている

扉を開けると中堂真ん中に阿弥陀仏のお顔が見え、またその部分の裳階が上がっていることで中堂に動きがでている。

平等院鳳凰堂はなぜそこにあるのか

広い宇治の地に平等院があり、敷地内には鳳凰堂がやたらと立派に建っている。
これは当初からそうなっていたわけではない。
平等院の創建当初は、鳳凰堂のみならず金堂、講堂、五重塔、三重塔、五大堂、法華堂、釣殿、宝蔵、大門と多数の伽藍が建ち並んでいた。

いつ、誰が・なんのために建てたのか。なぜ宇治なのか。
これにははっきりとしたわけがある。

平等院が建てられたわけ|特別な1052年

平等院が建てられた理由は年代と大きな関係がある。
その年代は1052年。
1052年というのは、仏教では特別な年。
お釈迦様が亡くなった紀元前949年(『周書異記』による)から2001年目にあたるのだ。
仏教ではお釈迦様の没後2000年まではよい世の中だが2001年からは釈迦の教えが消滅し、まともな人間がいなくなり悪がはびこり世が乱れる「末法の世」になるという考えがあり、1052年がまさにその2001年目だったのだ。

平等院は翌1053年に創建された。

実際に平安時代のなかばには天災や飢饉が起こり都は荒れて人々は不安のなかにいた。

ここに浄土教が広まった。
浄土教は「南無阿弥陀仏」ととなえればどんな人でも死後、阿弥陀仏に救われて極楽浄土(あの世の楽園)へ行くことができるという教え。
浄土教は庶民から貴族まで広く受け入れられた。

「極楽往生を願うならば極楽浄土の様子を思い描け」という教えもあり、極楽浄土の画がさかんに描かれ、極楽浄土を再現した庭園が全国で盛んに造られた。

画や庭園では収まらず建築物として藤原頼道が建立したのが平等院だ。

平等院が建てられたわけ|藤原頼道が自分の極楽浄土行きを願って

藤原頼道は、藤原氏が隆盛を極めた時代の藤原道長の子。

写真はNHK『光る君へ』ウェブサイトより

頼道は、都が荒れるのを自らの政治の責任ととらえず仏教の定めと解釈し、庶民ではなく自分が極楽浄土へ行かれるように、庶民を使役させ贅を尽くした極楽浄土をこの世に現した。

平等院が宇治にあるわけ

宇治は平安遷都以降、宇治川の交通の要衝であり風光明媚な景観に恵まれ貴族の隠居地であった。
父・藤原道長も別荘「宇治院」を保有していた。
この地に息子・頼道が平等院を建てた。

もう一つの理由として宮元健次さんは『京都名庭を歩く』でつぎのように挙げている。
宇治平等院は平安京からみて宇治川の対岸にある。
都から宇治川にかかる橋を渡って宇治へ入ることは「三途の川」をわたることとみることもできる。
その時、宇治は西に位置し阿弥陀如来は東を向いている。これらは平等院を極楽浄土に見立てようと意図している。

平等院鳳凰堂のみどころ

鳳凰堂という呼び名は江戸時代初期ごろから使われるようになったもので、もともとは阿弥陀堂とよばれていた。
1101年に藤原頼道の曽孫の忠実によって平等院の大修理が行われ、鳳凰堂が現在の姿になったのもこの時以来。

本尊 阿弥陀如来坐像【国宝】

浄土の国、西方には阿弥陀の国があり、仏界の仏たち全体を一つにまとめた姿として現されているのが阿弥陀如来。
阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」ととなえれば、極楽浄土へ連れて行ってくれる仏様だ。
東を向き、視線は本堂前の阿字池の対岸に向けられている。
当時最高の仏師・定朝によって作られた。

雲中供養菩薩像【国宝】

鳳凰堂中堂の壁周りに阿弥陀如来を囲むようにして雲中供養菩薩とよばれる小さな菩薩52体が架けならべられている。
雲中供養菩薩は、阿弥陀如来を讃えながら仏界の空を雲に乗って飛び回っている菩薩で、何千何万の数があり、鳳凰堂の52体はそのほんの一部。

52体はそれぞれ個性的で、合掌していたり楽器を奏でていたり舞っていたりなどの姿で雲に乗っている。
現在、26体がミュージアム鳳翔館でよく拝観することができる。

これも定朝工房で制作された。

中堂

堂内の阿弥陀如来坐像の上には天蓋【国宝】が飾られている。
周囲の壁には九品来迎図【国宝】が描かれている。

九品とは
九品は信仰の深さ〔品(ぼん)〕と善行〔生(しょう)〕を表す指標で、それぞれ上中下のランクがある。
最上は上品上生(じょうぼんじょうしょう)、最下は下品下生(げぼんげしょう)

鳳凰【国宝】

現在の鳳凰は2代目。初代はミュージアム鳳翔館に展示されている

屋根上に鳳凰が止まっている。
鳳凰は、すぐれた天子が世を治める時の予兆として姿を見せるといわれる縁起の良い鳥。
五色の羽毛をもち、鶏や孔雀、蛇や龍などが合わさっている。
鳳は雄、凰は雌の瑞鳥。

燈籠


センターに立つ燈籠は特徴が二つある。
一つは、火袋。
一つの石がくりぬかれているのではなく、向かい合う2枚の板石によってつくられている。
もう一つは、部分によって時代が違うこと。
基壇と基礎は平安時代、竿、火袋、笠などは室町時代のもの。
平等院燈籠とよばれる。

阿字池


鳳凰堂前の池は阿字池という。
阿は、仏教の本場インドのサンスクリット語の12ある母音の一番最初の音。
物事の始まり、根本を意味する。

洲浜


正面に石が敷き詰められている。
これは1990年から行われた整備事業で、発掘調査で明らかになった当時の姿に復元されたもの。

平等院と歴史物語

平等院は歴史物語の舞台としても登場する。

光源氏のモデル源融の別荘

貴族の別荘地の宇治には貴族で貴族で源氏物語の光源氏のモデル候補として知られる源融(みなもとのとおる)の別荘があった、
この別荘がのちに藤原道長にわたり「宇治院」になり、子・頼道が継ぎ平等院が建立された。

源平合戦の幕開け 宇治橋合戦

平等院内に「扇の芝」がある。

ここは平安時代の武将・源頼政が平氏打倒の兵をあげるも失敗、自刃した場所。平家に追い込まれた頼政は、ここで軍扇をひろげて辞世の句を詠み、西に向かって「南無阿弥陀仏」と唱えた。
辞世の句は「埋もれ木の 花咲く事もなかりしに 実のなる果てぞ 悲しかりける(老境に入るまで華々しい活躍ははかったが、最後に実だけはなったものの、それも悲しい結末であった)」

院内の別の場所に頼政の墓地もある。

源頼政挙兵
平等院が建立された約100年後、平清盛が急速に台頭し朝廷をも左右する権力を握った。
平氏に対抗する源氏も平治の乱で敗れ、平氏は繁栄するが、それにたいする反感も大きくなっていった。

ここで立ち上がったのが源頼政と、当時院政を敷いていた後白河院の皇子の以仁王(もちひとおう)だ。
2人は平氏打倒の計画を立てるが、これが敵方に漏れてしまい、逆に清盛の兵に追われることになった。

頼政軍が平等院で休んでいたところに平家軍が押し寄せ、宇治橋を挟んで攻防戦が繰り広げられた。
頼政軍は宇治橋の橋板を引きはがして敵を川に落下させるなど奮闘したが、大軍の平家軍に押され、頼政は自刃、以仁王は討たれた。
頼政の最後を見届けた武将渡辺唄は、頼政の首を敵にとられぬよう、石にくくりつけて宇治川の深いところに沈めた。

現在の宇治橋


この5年後、平氏は滅亡する。

扇の芝は令和8年まで修理事業のため閉鎖されている。

楠木正成に焼かれる

宇治川は戦争の際、京都の南の防衛線となる。
また、琵琶湖に通じ、淀川を経て大阪、瀬戸内海に通じる水上交通の要であった。
地の利を生かして平等院は兵の駐屯地となり、たびたび火災に見舞われた。

南北朝時代を描いた室町時代の軍記物語『太平記』には、南朝・後醍醐天皇側の楠木正成が平等院の建物を焼いたことが書かれている。


国宝

鳳凰堂
阿弥陀如来坐像
天蓋
雲中供養菩薩像
鳳凰
梵鐘
鳳凰堂中堂壁扉画

重要文化財

観音堂(非公開)
十一面観音像(非公開)
など。

史跡名勝

平等院庭園

宗派

浄土宗、天台宗の両住職が交代で代表を務めている。

日本のおもな宗派

密教系 天台宗
真言宗
浄土宗系 浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系 臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

平等院ホームページ

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