【伏見城跡】秀吉が晩年につくった大阪、京都を監督する城

◎豊臣秀吉が建て、ここで秀吉が亡くなった。
◎伏見城の戦いで徳川家康の臣下・鳥居元忠が討ち死にした。

ゆかりの人物:豊臣秀吉(建造)、徳川家康(再建)、鳥居元忠(討死に)
創建:安土桃山時代

伏見城とは

現在、伏見桃山城運動公園で「伏見城」が見られるが、これは1964年に建てられたレプリカ。

伏見城は明治天皇、同天皇皇后昭憲皇太后陵、桓武天皇陵などからなる「桃山陵墓地」のところに建てられた(秀吉は陵を壊して、城や家臣の住居などを建造した)。

本物の伏見城は豊臣秀吉がつくった城で、3度再建されている。
1期、2期、3期が豊臣秀吉時代。
4期が徳川家康時代。

秀吉はいくつも城を建て、全国統一に向かう初期に本拠地として建てたのは大阪城。
伏見城は、秀吉の終盤、後継に関する大波乱の時代から徳川家康が政権を奪取する激動期に立ち会ってきた城。

1期 隠居用の屋敷

秀吉は1592年、甥の秀次を後継者に指名し、秀吉が京都で政治を行っていた聚楽第も譲った。
自分の隠居用の屋敷として第1期伏見城をつくった。

2期 豊臣秀頼誕生。自分の城へ大規模改修

秀次を後継者指名した翌1593年、秀吉の子秀頼が誕生。
秀吉は、豊臣氏の本拠地としていた大阪城を秀頼に譲ることを決めた。

この頃、秀吉の朝鮮出兵が膠着状態にあり、その講和のための使者を迎えるための施設として、1594年、大規模な改修を行った。

翌1595年、秀吉は秀頼を後継者にすべく、秀次を死に追いやった。
秀吉は秀次を三条河原にさらし首にし、そのうえ家族や家臣達もそこで処刑させた。
聚楽第も破壊した。

3期 本格的な城に。関ケ原の前哨戦・伏見城の戦い起こる

2期伏見城が1596年地震で崩壊した。
翌1597年、新たに本格的な城として位置も少し変えて完成したのが伏見城だ。
秀吉60歳、秀吉4歳の時。晩年は伏見城で過ごすことが多く、翌年伏見城で死去した。

秀吉亡き後、関ケ原の戦いが行われるが、その前哨戦といわれるのが伏見城の戦い。

伏見城の戦い

秀吉の死後、秀頼は大阪城へ移り、伏見城には徳川家康が入ることになった。
家康は伏見城を重視しており、うまくのっとった形。
伏見城は、大阪城の豊臣家と西国大名を見張るのに好位置にあった。

1600年、家康は、会津の上杉景勝が豊臣政権に反逆したとして討伐に向かった。
一方、反家康の石田三成方の軍勢が家康の留守をねらい伏見城を攻撃した。
伏見城には家康の忠臣・鳥居元忠が守備役として残った

石田方4万人、鳥居方1800人の戦いで、元忠ら全員討ち死に、伏見城は陥落した。
この戦いで元忠ら武将の血にまみれた床板が養源院の天井に使用されており、血天井として知られている。

4期 徳川家康の拠点に

1601年徳川家康は伏見城を再建し、駿府城に移るまで拠点とした。
1603年にはここで征夷大将軍就任の儀式を挙げた。

徳川3代将軍家光まで伏見城で征夷大将軍就任の儀式が行われたが、1623年、廃城となった。

廃城後は取り壊され、その跡に桃ノ木が群生したため「桃山」とよばれるようになった。
「安土桃山時代」は後世に称されたもの。

豊臣秀吉はなぜ伏見につくったのか

伏見は京都中心部から離れている。
これが好立地なのだ。
秀吉は、伏見が京都に目を光らせ、大阪との連絡がよく、東からの勢力に備えるに便利な場所と考えた。

また、伏見は水に恵まれている。
港があり、宇治川、桂川が流れ淀川につながり、大阪湾、瀬戸内海、太平洋に出ることができる。
また、琵琶湖を経て日本海に出ることもできる。
伏見港は京都に一番近い港だ。

伏見を抑えておけば、大阪から方面から京都へ入るのは難しい。

秀吉は、弱点となっている場所には堤を築いたり橋や道を整備し、防衛体制を整えることができた。

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