◎小野小町ゆかりの寺。
◎真言密教の雨乞いの天才、仁海僧侶の曼荼羅寺の子院。
◎門跡寺院。
ゆかりの人物:仁海(創建)、小野小町。
創建:平安時代
隋心院は小野小町ゆかりの寺
隋心院は小野小町ゆかりの寺だ。
小野小町は平安時代の歌人。
百人一首にも選定されている「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」が有名だ。
「花の色はむなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降り続く間に。 私の容姿はむなしく衰えてしまった、恋や世間のことなど物思いにふけっているうちに。」
小野小町は絶世の美女としても今だ広く認識されている。
隋心院は小町の実家
「隋心院の地は小野小町の父・小野良実の宅地で、娘の小町は湧き出る水を愛して顔を化粧した」と江戸時代の観光名所ガイドブック『都名所図絵』で紹介されている。
『都名所図絵』国際日本文化研究センター
小町が化粧したといわれている「化粧の井戸」
小町は、平安時代の藤原氏が台頭し始めた頃の人物で、天皇・三代に仕え、晩年は隋心院の地で暮らしたと伝えられている。
深草少将に求愛され続けた・伝説
小野小町のモテ話のエピソードで有名なものが「深草少将の百夜通い」。
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小町に強く思いを寄せる人物に深草少将がいた。
小町は少将に百日間毎日通い続けたら受け入れるといった。
少将は99日通ったが100日目、大雪となり凍死してしまった。
————
という悲恋のストーリーだ。
話自体はフィクションだが、実在のモデルは存在したといわれている。
そして、深草少将のモデルほか多くの貴公子から小町に寄せられた千束の恋文が埋められているといわれる塚「文塚」が境内に建てられている。
隋心院の起こり
隋心院は平安時代に、真言密教の僧・仁海(にんがい)が創建した牛皮山曼荼羅寺の子院として建てられた。
仁海は真言密教・小野流の祖。
小野は地名。
政治は藤原道長、宗教は仁海
平安時代の藤原道長全盛の時代で、政治が藤原道長なら、宗教は仁海と認識されるほど仁海は大きな存在であった。
仁海がそこまで力をもった要因の一つに雨乞いの呪術がある。
日照りになると、水不足になり農作物が育たず食糧難となり疫病が蔓延し国は衰退する。為政者としてはとにかく雨降りを願うしかなかった。
これを仁海が呪術で解決したというのだ。
雨乞いのみならず、道長やその家族の病気平癒祈願でも貢献し、仁海は道長のお気に入りとなった。
真言密教と雨乞い
雨乞いといえば、東寺の高僧・弘法大師 空海が西寺(今はない)の守敏と神泉苑で雨乞い対決を行い、勝利したという伝説がある。
【東寺(教王護国寺)】空海の寺 寺全体が立体曼荼羅
◎空海の寺 ◎平安京創建当初の姿をとどめている ◎立体曼荼羅がある ◎五重塔は5代目 ◎楠木正成が射た矢の跡がある ゆかりの人物:空海 創建:平安時代 東寺は平安京創建の2年後に創建 796年 東寺(とうじ)は平安京が創建された際、その一部として建設さ...
以来、雨乞いは真言密教の僧たちに受け継がれていて、空海から8代目の仁海が特別な才能を発揮したのだ。
鎌倉時代には門跡寺院になる
鎌倉時代に門跡寺院となって以来、隋心院門跡とよばれる。
門跡寺院は皇室や公家が出家して住職を務めた寺院のこと。
重要文化財
如意輪観世音菩薩坐像(御本尊)
金剛薩埵坐像 鎌倉時代 快慶作
阿弥陀如来坐像 平安時代後期 伝・定朝作
愛染曼荼羅図
蘭亭曲水図屏風(八曲二双) 江戸時代 狩野山雪筆
宗派
真言宗
日本のおもな宗派
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