【金地院 南禅寺塔頭】徳川永遠を祈念する小堀遠州作「鶴亀の庭」

◎「黒衣の宰相」以心崇伝の寺
◎小堀遠州作「鶴亀の庭」。家康を拝するための庭。
◎徳川家康の遺髪が祀られている東照宮がある。
◎長谷川等伯の画「猿猴捉月図 老松」が有名。
猿猴は手長猿のこと。

ゆかりの人物:以心崇伝
創建:江戸時代

南禅寺塔頭(寺院群)・金地院は「黒衣の宰相」以心崇伝の寺。

金地院(こんちいん)は、1605年南禅寺住職となった以心崇伝が南禅寺に作った。

もともと室町時代に北山に創建された寺を移築したもの。

以心崇伝は宗教制度・外交などに辣腕をふるう実務家であった。
この実力を徳川家康に認められ、家康の顧問となる。
以降、政治の重要な場面にかかわり「黒衣の宰相」ともよばれた。
徳川家三代(家康・秀忠・家光)にわたり重用された。

崇伝は、火災、応仁の乱で荒廃した南禅寺の復興に手腕を発揮し、徳川家の権威をそのまま用いて金地院も整えた。

燈籠に徳川の御門


瓦にも。

金地院の建物

方丈

方丈は禅宗寺院特有の本堂。
1611年に崇伝が伏見桃山城の一部を徳川家光から譲り受け移築した。

正面の額

「布金道場」と書かれた額が掲げられている。
山岡鉄舟筆。

東照宮

日光東照宮と共通する絢爛さの名残が感じられる。

家康の死後、遺嘱により家康の遺髪と念持仏を祀って造営された。

天上の鳴龍は狩野探幽筆。
三十六歌仙の額は土佐光起筆。
歌は天台宗・門跡寺院の48世、青連院宮尊純法親王(しょうれんいんのみやそんじゅんほうしんのう)の筆跡。

以心崇伝像が近くの開山堂にある

茶室「八窓席」

※特別拝観。申込制。

金地院の「鶴亀の庭」


「鶴亀の庭」は方丈前の庭園。
家康の死後つくられた。
小堀遠州によってつくられたもの。小堀遠州作と断言できる庭はわりと少ない。

江戸時代初期の代表的な枯山水の庭。
典型的な配置はつぎのとおり。

中央に蓬莱山。
それを拝するための礼拝石。
右に鶴島、左に亀島。

後方の樹木は、丸くカットされている。
西洋風の剪定で、遠州のシンボル的な型となっている。

亀島


向かって右が頭、左が尾。背中に立つのはるビャクシン(樹齢数百年といわれる)。

鶴島

横たわっている長い石が首。やけに大きく立派。
田中昭三は著書『とっておきの庭案内』で”この庭は当初池泉を予定しており、石橋用に石が多く用意されていたが、なんらかの理由で枯山水に変更となり、橋用の石を転用したのでは?”と推測している。

織部燈籠

蓬莱連山の一角に立っている。
少し傾いているのは、灯りが届くように方丈の部屋に向けているため。

織部燈籠
織部燈籠は、切支丹燈籠ともいわれる。
竿の上部が丸みをおびていて、丸の部分にアルファベットを組み合わせた記号、下部に立像が彫り出されている。
この像を地蔵の形ながらイエスに見立て隠れキリシタンの信仰の意味を含ませている。

安土桃山時代の茶人、古田織部(ふるたおりべ)が創案したといわれる。
古田織部は小堀遠州の師匠。大坂夏の陣の際、豊臣への内通を疑われ徳川に切腹させられる。

家康も家光もキリスト教を弾圧した。もちろん以心崇伝も同様だ。
それなのに、切支丹燈籠が置かれているのはなぜなのかわからない。
小堀遠州の古田織部への鎮魂なのだろうか。

礼拝石


礼拝石は、前方の蓬莱連山を拝する形に置かれてはいるが、崇伝の実際のねらいとして、小山の向こうの東照宮を拝するためのものとなっている。
この庭がつくられたのは、1630年。
家康が亡くなったのは1616年で1630年は家光の時代。

つまり全体として「鶴亀の庭」は徳川の永遠を祈る庭だという。

弁天池


「鶴亀の庭」の向かって左側にある池。

金地院の画

「猿猴捉月図 老松」

※特別拝観。

画像は拝観チケット

茶室「八窓席」には「猿猴捉月図(えんこうそくげつず) 老松」が描かれた襖がある。
作者は長谷川等伯。

猿猴捉月図
猿猴捉月図は仏典にある物語を描いたもの。
猿が木の上から水に映る月をとろうとしているうちに、枝が折れておぼれてしまうという内容。
身の程をわきまえずに、無理なことを望むと災難にあうことの例え。
猿猴は手長猿のこと。


国宝

紙本墨画溪陰小築図
絹本著色秋景山水図・冬景山水図

重要文化財

方丈
茶室(八窓席)
東照宮(本殿、石の間、拝殿)
ほか。

宗派

臨済宗

日本のおもな宗派

密教系 天台宗
真言宗
浄土宗系 浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系 臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

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