【銀閣寺(東山慈照寺)】落ち目の8代将軍・足利義政が簒奪品で造園した

◎室町幕府第8代将軍・足利義政の山荘だった。
◎創建当時から残っているのは「銀閣」と「東求堂」だけ。
◎入って目立つ白い巨大プリン「向月台」と波状に整形された白砂「銀沙灘」は江戸時代に作られたもの。
◎「銀閣」といわれはじめたのは江戸時代から。
◎庭巡りも楽しい。
◎西芳寺庭園を模してつくった。
◎月をめでるためのしかけ。

ゆかりの人物:室町幕府第8代将軍・足利義政宮城丹波守豊盛
創建:室町時代
再建:江戸時代

銀がないのになぜ銀閣というのか

観音殿 銀閣【国宝】


銀閣は銀で塗られていないが、銀があった痕跡がある。
それは、観音殿 銀閣(かんのんでん ぎんかく)の2階の軒下だ。庇裏から銀の成分が検出され、この部分が銀箔していた可能性が見えてきたという。

なぜここに銀がほどこされていたのか。
それは「向月台(こうげつだい)」と「銀沙灘(ぎんしゃだん)」に関係する。

向月台

銀沙灘

この2つの造形物が月光を反射し、その明りが軒下の銀箔にさらに反射して室内を照らすという効果をねらったととれる。

「銀沙灘」の砂は京都の白川砂が使用されている。白川砂には石英などが含まれていて光をより強く反射する。

「向月台」と「銀沙灘」がつくられたのは、再建された江戸時代。
もとは「観音殿」とよばれていた建物が「銀閣」とよばれるようになったのは江戸時代の再建以降。
「銀箔・向月台・銀沙灘」の月見セットで「銀閣」とよばれるようになったとも考えられる。

銀閣は造園趣味の室町8代将軍足利義政が創建

足利義政は応仁の乱の時の将軍

銀閣は足利義政が創建した。
義政は金閣寺を創建した3代義満の孫。

義満の時代は室町幕府の全盛期であったが、義政の時代は斜陽の時代だった。
守護大名たちの権力争いで戦乱が続き、飢饉で死者もあふれていた。
庶民は困窮し史上最悪の地獄絵とまでいわれている状況をしりめに、義政は贅沢な自分の趣味の造園や文化活動にのめりこんでいた。

守護大名の争いは、義政の後継者問題と合わさり、応仁の乱の勃発へと発展する。
応仁の乱は11年後に終結するが、京の街は焼け野原となる。

徐々に復興に向かうなか、人々の暮らしを顧みることなく義政は自分の隠居用の山荘、銀閣の創建にとりかかったのだ。

応仁の乱と足利義政
応仁の乱は、足利義政の後継を決まっていたとおり弟にするのか、その後生まれてきた息子にするのかの問題が入り口となった。

弟・息子それぞれに、有力守護大名の細川勝元、山名宗全がバックにつき、のちにそれが東西の陣営に分かれての大規模な戦争に拡大していく。

応仁の乱は1467年に始まり11年間続き、義尚が将軍に就任し終わった。

銀閣は西芳寺庭園を模している

義政は応仁の乱が終わったあと、隠居用の山荘建設に着手する。
これが銀閣。
義政は阿弥陀仏へ強い信仰をもち、また西芳寺庭園を最も好んでおり、それを模倣した山荘を追求した。

模倣1 上下2段構成

西芳寺は「苔寺」として有名な寺。

西芳寺は上段下段の2段で構成されている。
上段:枯山水の険しい石の厳しい世界。石は古墳の墓石を利用している。地獄を表している。
下段:池の周りを廻りあるいて景色の変化を楽しむ池泉回遊式庭園の遊戯的世界。
「西方浄土」つまり阿弥陀如来のすむ清らかな天国を表している。

銀閣も現在は縮小されているが、創建当時は上下2段で構成されていた。

模倣2 もと墓地に建設

西芳寺は上段が「穢土寺(えどじ)」下段が「西方寺(さいほうじ)」という寺であった。
銀閣もわざわざ「浄土寺」という寺の土地を選んだ。無断で使用し本山の延暦寺からクレームがきた。

銀閣は盗品でつくられた

銀閣の庭石や庭木は公家や寺院から寄付させたもの。
さらに義政は京都周辺で気に入った石や植木を簒奪して配置した。
・等持院から大量の松
・東寺から大量のハス
・金閣から庭石10個
などなど。

また、金閣から仏像を運び銀閣の本尊とした。

参考文献:宮元健次『京都格別な寺』

銀閣は月の出をめでる場所

義政は銀閣正面の山を「月待山」となづけ、そこから上る月の出を楽しんだ。

銀閣寺パンフレットより作成

東山山荘から禅寺・慈照寺へ

義政が生きているときは、「銀閣寺」は寺ではなく東山山荘だった。
義政の死後、遺言により東山山荘を禅寺に改めて義政の院号である慈照院とし、後に慈照寺と改名した。

現在は慈照寺・銀閣は相国寺の塔頭の一つ。
相国寺は義政の祖父・室町第3代足利義満が建てた寺。

銀閣焼失する

室町時代末期、15代将軍・足利義昭と打倒足利家に打って出る三好長慶(みよし ながよし)との争いで、慈照寺は焼失した。
しかし、銀閣と東求堂は残った。この2つが創建当初からの建造物で、国宝に指定されている。

東求堂【国宝】

銀閣再建

江戸時代の1615年、宮城丹波守豊盛が慈照寺再建の普請奉行となる。
宮城丹波守豊盛は元は豊臣秀吉の家臣で後に徳川家に仕えた武将。

豊盛は、銀閣を義政が月観処として楽しんだ意図を引き継いで、さらに強調して月を効果的に魅せる装置を導入して再生した。
「向月台」と「銀沙灘」がそれだ。
>>銀がないのになぜ銀閣というのか

銀閣寺庭園

銀閣寺は当初の姿から破壊されて現在があるが、痕跡が残されているものもあり、それがかえって想像力をかきたてる。

当初上下2段構成であったので、その名残で池のある下段(天国)と展望所へ続くちょっとした山道に上段(地獄)の名残がある。

下段

錦鏡池


錦鏡池(きんきようち)の周りを周回して景色の変化を楽しむ。ただ、広さは今の2倍以上あったとのこと。

石橋


石橋は多く、7カ所ある。
特徴は橋の両端に高い石と低い石が対角線上におかれている。

これによりシンプルな橋に動きがでる。
石一つ一つも立派な石。

池のなかにある岩島

大内石、座禅石など名石が池のなかに配置されている。
当初はさらに多くあり、義政の死後持ち去られた可能性がある。

大内石は周防の大名大内政弘が義政に献上したもの。

洗月泉


洗月泉(せんげつせん)は、細くまっすぐに落ちる滝。
龍門瀑(りゅうもんばく)だった可能性も指摘されている。
龍門瀑は、「登竜門」の由来となった古代中国の故事で「鯉が龍門の滝を登って龍に成った」という逸話の場面を再現するもの。
ひたすら修行を繰り返す禅の理念を示している。

西芳寺や金閣寺、天龍寺の龍門瀑が有名。

上段

お茶の井


義政愛用のお茶の井で、当時の姿をとどめている。
つくばいの元祖。
西芳寺の龍淵水をまねたとされる。

石組跡


当初上段にあった枯滝石組の可能性が高いとされている。

展望所

展望所より。雨の銀閣

銀閣寺はじめてものがたり

狩野派のはじめて

義政は銀閣のふすま絵に絵かきの狩野正信(かのうまさのぶ)を抜擢しすべてをまかせた。
狩野永徳、探幽など狩野派は有名だが、はじめてが狩野正信。

「大文字」送り火のはじめて

義政の息子・義尚は25歳で亡くなる。
義政は悲しみ、義尚の菩提を弔うため、如意ヶ岳の山面に白布で「大」の字を形どるように命じた。
禅僧はお盆に松割木に点火し精霊を送った。
これが「大文字の送り火」のはじめて。

如意ヶ岳の西峰にいわゆる「大文字山」がある。


国宝

慈照寺銀閣
慈照寺東求堂

特別史跡・特別史跡

庭園

宗派

臨済宗[禅宗]

日本のおもな宗派

密教系 天台宗
真言宗
浄土宗系 浄土宗
浄土真宗
日蓮宗
禅宗系 臨済宗
曹洞宗
黄檗宗

銀閣寺ホームページ

関連記事